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このお方が私たちの神だからです

静まりの時 ヨシュア24・14~18〔神に仕える決断〕
日付:2025年02月14日(金)

18 主はあらゆる民を、この地に住んでいたアモリ人を私たちの前から追い払われました。私たちもまた、主に仕えます。このお方が私たちの神だからです。」

 「あらゆる民」そして「この地に住んでいたアモリ人」を、自分たちの前から追い払われた「主」。その「主」こそ、私たちの「神」である、と。
 主、と、神は、今となっては私たちにとって同じような意味を持った言葉ですが、ここには、その違いが鮮明に記されているように思います。
 主を神とするかどうか。信仰の決断がそこに明らかにされるのだと思います。

 「主」という言葉は、新改訳では太字で記されていますので、原文のヘブル語では「ヤーウェ(エホバ)」です。偶像の神の一つに「バアル」というのが登場しますが、これも土地のことばで「主」という意味だと言われます。
 そうすると、エホバを神とするか、それともバアルを神とするか。神さまは、バアルを、あるいは他の神を拝む民を一掃された。その目的は、バアルではなく、エホバを神とする道を開くためであった。いざそれが現実になった時、民は改めて告白しなければならない。自分たちはバアルではなくエホバを神とする、と。

 バアルは、豊穣神の一つであったと言われます。豊穣をもたらす神を求める、ということは、すなわちご利益を求めるというご利益信仰を意味しています。そうすると、ご利益信仰を自分の神とするか、それとも「主」を神とするか。その選択が迫られたということにもなるかもしれません。

 キリスト者として生きる、ということは、十字架につけられた主こそ、神である、と告白する信仰です。十字架につけられたお方がまことの神であると「観る」ことができるかどうか。第一コリント2章には、この世の支配者にはそれが見えなかった、と書かれています。この世の支配者、自分こそ神であるかのような生き方は、十字架の主が見えない、その栄光が見えないのです。
 十字架の主に神の栄光を見るためには、神の知識が必要であるとパウロは語りました。神の知識とは、へりくだってこの方こそ神であると信じる信仰によって生まれます。幼子となることによって知ることのできる知識です。
 今日も、このお方を神とするかどうか。依然自分自身を神とするか。それが問われているのだと思います。


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