静まりの時 第二サムエル12・1~15〔回心〕
日付:2025年02月04日(火)
9 どうして、あなたは主のことばを蔑み、わたしの目に悪であることを行ったのか。
重大な罪を犯したダビデに、神さまは、預言者ナタンを遣わし、ご自身のことばを語られました。それはダビデの罪を明らかにしダビデを断罪する厳しいことばでした。
ダビデは、家来であったウリアの妻バテ・シェバを、権力をもって自分のものにし、それを隠すためにウリアを卑怯な方法で殺してしまいました。それは、主のことばを蔑んだことである、とナタンは指摘しました。
主のことばを蔑む、主のことばを見下す、侮る、ないがしろにする。主のことばよりも、自分の願望を優先する。創世記3章に描かれている人間の罪です。罪の根本です。
7 ナタンはダビデに言った。「あなたがその男です。
ナタンは相手が王であろうとも恐れることなくその罪をまっすぐに指摘しました。こうして預言者として役割を果たします。このように預言者の役割を果たして殺されてしまった預言者はたくさんいます。逆に王におもねり、忖度し、こびて王の気に入ることばを語った預言者もたくさんいました。今日、預言者として神のことばを語るべく立てられている牧師たちも、まっすぐにみことばを語らなければなりません。会衆におもねり、忖度し、こびてしまうとしたら、その役割が果たせていないことになります。
13 ダビデはナタンに言った。「私は主の前に罪ある者です。」
ダビデは、ナタンのことばに自らの罪を認め悔い改めました。一介の預言者であるナタン。王から見ればただの人間です。しかしダビデは、自分の罪を認め悔い改めたのです。失うことの多さに臆することなく、恥も外聞もなく悔い改めたのです。ここに神さまを信じるダビデであることが明らかにされました。ナタンのことばを神のことばとして信じ、受け入れたのです。どんなに立派なことをしていたとしても、自らの罪を認めることができないならば、神さまを信じているとは言えません。信仰者とは、神さまのまえに悔い改めに生きる者なのです。
礼拝で語られる牧師のことばが神のことばであり、会衆は基本的に罪びとである、ということであるならば、当然会衆にとって耳障りの良いことばばかりが語られることではありません。会衆が、このダビデのように、私は主の前に罪ある者です、と告白できるかどうかは、会衆の信仰の成熟度と密接に結びついていることになります。
ヘロデの罪を指摘したバプテスマのヨハネは投獄され、最後は宴会の余興として殺されてしまいました。ダビデのような会衆であるか、それともヘロデのような会衆であるのか。祝福の分かれ道なのだと思います。