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あらかじめ用意しておいてもらうことが必要だと思いました

静まりの時 第二コリント9・1~5〔分ち合うよろこび〕
日付:2025年01月29日(水)

5 そこで私は、兄弟たちに頼んで先にそちらに行ってもらい、あなたがたが以前に約束していた祝福の贈り物を、あらかじめ用意しておいてもらうことが必要だと思いました。惜しみながらするのではなく、祝福の贈り物として用意してもらうためです。

 祝福の贈り物。この場合は他の教会への援助献金、ということか、と思います。コリントの教会は、パウロの献金のアッピールに応えて、熱意をもって献げると申し出たのだと思います。それをパウロは感謝しているところですが、何やらここで変な念を押しているような気がしてならないのですが。
 「あらかじめ用意しておいてもらうことが必要である」。どうしてそんなことが必要なのか。そんなことをわざわざ手紙で伝えるということはいったいどういうことか。コリントの教会の人びとがそんなに信用ならない人たちだったのか。いろいろ想像がはしります。
 こういう風にいわれたコリントの教会の皆さんもあまり気持ちの良いことではないのではないか、とも思います。ちゃんと準備しているかどうかを管理されているようです。

 教会間の、あまりにも人間的なやり取りのように思えてもきますが、私たちはこれを神のことばとして読み学んでいます。ここに私たちが読み取らなければならないのは、人間的なことではなく、神さまのみこころです。

 「あらかじめ準備する」。それが、その贈り物が真実の贈り物、あるいは愛の贈り物となるかならないかの分かれ道である、と。贈り物が、行き当たりばったりのその場の感情によるものか。それとも心落ち着けて、熟慮し決定されたものなのか。それは贈り物における祈りが問われているように思います。
 これは贈り物、献金だけにまつわることではないと思います。おおよそ奉仕ということについては、あらかじめ準備する、ということが大切ではないか。説教もそうです。その場で与えられた神のことば、というのも新鮮で生き生きとしているようにも思えますが、その日の礼拝のために、祈り備え、学び黙想し、教会の会衆のために祈りをささげつつ導かれていくことは大切なことです。一字一字を書きながら、神さまのみこころをたずね求めていく。親しい人に読んでいただき、批評をいただく。そうして日曜日に臨む。30分ほどの説教の時間ですが、準備は一週間では足りないのではないか。あらためてそれだけ自分は準備を大切にしているだろうかと振り返ります。


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