静まりの時 ヤコブ5・1~6〔真の富〕
日付:2025年01月23日(木)
4 見なさい。あなたがたの畑の刈り入れをした労働者への未払い賃金が、叫び声をあげています。刈り入れをした人たちの叫び声は、万軍の主の耳に届いています。
今日、金持ちである、ということ自体が悪であるわけではありません。しかしヤコブの手紙が書かれた時代はそうでもなかったようです。金持ちである、ということが、他者を搾取することによって成り立っていた時代だったようです。
地主がいて、その所有する畑で小作人が雇われています。なにがしかの賃金が支払われるはずですが、現代のように基本的人権のない時代、あるいは人権感覚の低い時代、あるいは労働基準局や厚生労働省のようなところのない時代には、その賃金が正当な額であったかどうかはかなり疑わしいことだったのだと思います。
そのような問題が社会にあっても、長く常態化しているところに、意見を言い改革を促すことはなかなか難しいことです。キリスト者といえども容易に手の付けられる問題ではなかったのだと思います。大航海時代に、奴隷制度に反対しようとした人たちに向かって、教会の裕福な信徒たちは、奴隷がいなくなったらだれが砂糖やチョコレートを運んでくれるのか、といって文句を言ったとか。
しかし教会には、さまざまな立場の人たちが集うようになりました。地主が一信徒で、その畑で働く小作人が教会では指導的な立場に立ったということも起ったことでしょう。教会はおのずと、社会的な立場を超えて、一人の人間の価値を考えるところとなったのだと思います。教会は、このような社会的な問題におのずと向き合うことになりました。そこでヤコブの手紙では、正当な賃金が支払われるようにとの指導の言葉が語られました。
現代ではもはやこれは意味のないことであるのか。そうではないと思います。資本主義経済の中で、格差が広がり、自己責任論が蔓延する社会では、ヤコブの時代よりもさらに複雑化した問題が起こっているのだと思います。
「あなたがたの畑の刈り入れをした労働者への未払い賃金が、叫び声をあげています。」
私たちは地主ではないかもしれないし、労働者を雇っているような立場ではないかもしれません。しかし日々の生活を振り返ると、さまざまな人たちの労働によって支えられていることを思います。その方々へ正しい賃金を支払っているだろうか。
少しでも安く、少しでも得をすることが賢いことであるとして、資本主義では競争原理の中で、価格が低くなっていきます。私たちにはそれはそれで嬉しいことなのですが、それが誰かの苦しみを生み出しているのではないか。叫び声を上げさせてしまっているのではないか。フェアートレードのもの買うことが良いことであるとは思うのですが、その価格を見るとなかなか手が出せない。しかしそれは低賃金で雇われている人たちの叫びに耳を塞いでいるようなことではないだろうか。