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この世の異邦人

静まりの時 ルカ12・22~34〔真の富〕
日付:2025年01月21日(火)

25 あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。
26 こんな小さなことさえできないのなら、なぜほかのことまで心配するのですか。

 「自分のいのちを延ばすこと」。それは「こんな小さなこと」であると主は言われました。自分のいのちを延ばすなどということは、小さなことではなく、むしろ人生最大の重大ごとではないかと思います。しかし主はそれを小さなことと言われたのです。
 そうするともっと大きなことがある、ということかもしれませんが、この文脈では「なぜほかのことまで心配するのか」と続きますので、この私たちが心配している「ほかのこと」は、その「こんな小さなこと」よりもさらに小さなことである、ということかもしれません。
 私たちが心配しているようなことは、本当に小さなこと、些細なことなのかもしれない。
 しかし、自分の心配事を誰かに話したときに、そんな小さなことで心配しなさんな、と言われると少なからず傷つくものです。私が心配していることは、小さなことではない、重大なことなのだ、と言い返したくなります。
 しかしその上で、神さまの言葉に耳を傾けるとすれば、神さまはそれはほんの些細なことだよ、と語っていてくださっている。おそらくその神さまのことばに耳を傾け、心を開けるか、が私たちの課題なのだと思います。
 私の心配事を、ほんの些細なことだ、と言われて腹を立てるか、それとも、そうだそうだと聞き受け入れることが出来るかどうか。人生の分かれ道です。

29 何を食べたらよいか、何を飲んだらよいかと、心配するのをやめ、気をもむのをやめなさい。
30 これらのものはすべて、この世の異邦人が切に求めているものです。これらのものがあなたがたに必要であることは、あなたがたの父が知っておられます。
31 むしろ、あなたがたは御国を求めなさい。そうすれば、これらのものはそれに加えて与えられます。

 「異邦人」。文字通りユダヤ人ではない人たちのことだと思いますが、続く節に「御国」ということばがありますので、もう少し想像が膨らみます。
 信仰者の国籍は天にある、とパウロはピリピ書で語りました。とすると、イエスさまを信じている私たちは、この世にあっては、異邦人です。
 しかしこの世とは、信仰者にとって異邦の国であり続けるのか。ここでイエスさまは、「何を食べたらよいか、何を飲んだらよいかと、心配する」人びとのこと。すなわちこの世に生きる人たちのことを、この世の異邦人、と読んでおられるようにも思えます。
 本来この世は、神さまによって造られたものです。イエスさまを信じている者たちこそ、この世の住人です。国籍を天に持つ者こそ、この世に生きるのです。信仰者はこの世に対して刹那的に生きるのではなく、本当にこの世にあって、喜んで生きる者なのです。
 そのために、何を食べようか、何を着ようかと心配するのではなく、神さまが備えてくださるに違いないと信じて生きる。そうしてこの世を楽しみながら生きていく。心配から解放されて、天国を目指しつつ、今のこのいのちを喜んで生きていく。それが信仰者の生き方なのだと思います。


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