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聖書の朗読と勧めと教えに専念しなさい

静まりの時 第一テモテ4・11~16〔成熟する信仰〕
日付:2025年01月15日(水)

13 私が行くまで、聖書の朗読と勧めと教えに専念しなさい。

 テモテが何歳ぐらいであったのかは確かなことは書かれていませんが、パウロから「年が若いからといって、だれにも軽く見られないようにしなさい」と言われていることから、おそらく若かったのだと思います。
 若いということはエネルギーに溢れているようで、私のような者からはそれだけでうらやましいようなことですが、教会に仕える奉仕者に要求されることからは、難しい面もあるようです。
 若いので軽く見られてしまう。軽く見る、とは、「問題にしない」「意に介しない」「恐れない」、さらには「軽蔑する」といった意味も含まれているようです。
 若いというのは、絶対的なものではなく相対的なもの、つまり、比較において評価されることです。80歳であっても、まわりに100歳の人ばかりの中では若いと言われるでしょう。20歳でも、10代に囲まれていれば若いとは言われません。
 教会に新しく牧師が赴任する場合、おそらく多くの場合は前任者よりも「若い」ものです。またそこにいる信徒から見れば、自分たちよりも新しく来た者です。その教会に対する情報量は圧倒的に自分たちのほうが多く、後から来た新任の牧師の意見は、どうしても軽く扱われる傾向にあるでしょう。牧師にとっては少なからずつらいことですが、こればかりはどうしようもありません。「だれにも軽く見られないようにしなさい」と言われてもどうしていいか分からないことになります。変に権威を振りかざしては空回りするだけでよい結果は生まれないでしょう。
 パウロは軽く見られないようになる道を具体的に語ります。

 「ことば、態度、愛、信仰、純潔において信者の模範となりなさい」。そのために「私が行くまで、聖書の朗読と勧めと教えに専念しなさい」。「長老たちによる按手を受けたとき、預言によって与えられた、あなたのうちにある賜物を軽んじてはいけません」。「これらのことに心を砕き、ひたすら励みなさい」。
 信者の模範というと、いろいろと想像しますが、ここでは牧師が牧師でなければできないことに専念しなさい、と言っているようです。「聖書の朗読」「勧め」「教え」に専念する。つまり説教をしっかりしなさい、ということでしょう。
 「そうすれば、あなたの進歩はすべての人に明らかになるでしょう」。
 説教をしっかりとしていれば、それが信者の模範となる道を開いていく、だれにも軽く見られないような者になっていく。おのずとなっていく、と。

「自分自身にも、教えることにも、よく気をつけなさい」。この「気をつける」は、「心を砕く」という意味の言葉です。新共同訳では「気を配りなさい」と訳されています。
 自分自身に気を配る。それは自分を戒めなさい、とも聞こえる言葉ですが、そうではなくて、自分自身にも「配慮」しなさい、という意味だと思います。
 奉仕者生活では自分を後回しにしなければならない場面にたびたび出会います。しかし自分自身に配慮できない者が、他者を配慮することはできません。

「働きをあくまでも続けなさい。そうすれば、自分自身と、あなたの教えを聞く人たちとを、救うことになるのです」。


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