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どれだけ私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることでしょうか

静まりの時 ヘブル9・11~15〔祝福の契約〕
日付:2025年01月10日(金)

14 まして、キリストが傷のないご自分を、とこしえの御霊によって神にお献げになったその血は、どれだけ私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にすることでしょうか。

 キリストが十字架においてお献げくださったいのちがどれだけ尊い(貴い)ものであったのか。かけがえのない貴いものであったと考えるか否かによって、信仰生活は大きく変わってくると思います。
 私の罪のために身代わりとして献げられたいのちが、単に人間のいのちであったのか、それとも天と地を造られた神のいのちであったのか。
 キリストは旧約聖書において現されたまことの神であったと教会は信じました。十字架上で献げられたいのちは、神のいのちであったと信じたのです。
 私の罪は、神のいのちをもってしか贖いきることのできない大きなものであった。しかし神は、ご自身のいのちを捨ててまで、私を救いたいと願われた。キリストが神であると信じる者は、そのように信じています。そうして完全に救っていただいたことを喜んでいます。
 もしキリストは神ではない、とするならば、私の罪はそれほど大きなものではない、神は私を救うために、自分では何も犠牲をささげようとなさらなかった、ということになり、それは、罪を軽く扱うことになり、また自分のいのちを軽く扱うことになります。また神さまの愛が完全なものではない、ということになってしまいます。

 十字架の犠牲が、まことの神のいのちの犠牲であったと信じる私たちは、大きな神の愛に出会いました。その愛は「私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にする」力を持っています。
 十字架の犠牲が、私のために為された神の犠牲であることを信じた者は、必ず自らを聖くあろうとします。


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