静まりの時 イザヤ51・11~16〔初めと終わり〕
日付:2025年 1月 3日(金)
12 「わたし、わたしこそ、あなたがたを慰める者。
あなたは何者なのか。
死ななければならない人間や、
草にも等しい人の子を恐れるとは。
「あなたは何ものなのか」。人を恐れるのは、自分自身が何者であるのかを知らない、あるいは忘れてしまっているからである、と語っているようです。
人を恐れるとすれば、それは人を知らないからなのだと思います。人とは「死ななければならない」「草にも等しい」存在である。私自身が恐れなければならないようなダメージを与えることはできない。あるいは出来たとしても、それは決定的なものではない。私を滅ぼすことはできない。人間とはそういう存在なのです。
どうしてそのような人間を恐れてしまうのか。それは神さまを忘れてしまっているからであると語ります。神さまこそ、私を慰める者である。
神さまの慰めとはいったい何か。
14 うずくまる捕らわれ人もすぐに解き放たれ、
死んで穴に下ることはなく、
パンにも事欠かない。
15 わたしはあなたの神、主。
海をかき立て、波をとどろかせる。
その名は万軍の主。
16 わたしのことばをあなたの口に置き、
この手の陰にあなたをかばい、
天を置き、地の基を定め、
『あなたはわたしの民だ』とシオンに言う。
創造主である神が、私を愛しておられ、時にかなって良いものを与えて下さる。神の言葉を私の口に置いてくださる。つねにかばってくださる。あなたはわたしの民だ、と語ってくださる。
人を恐れるのは、神を忘れてしまっているからである。それはまた自分とはどういう存在であるかを忘れてしまっていることでもある。私は、神に愛されているものである、と聖書は語ります。
「あなたは何者なのか」。