静まりの時 ルカ2・39~40〔よろこびのおとずれ〕
日付:2024年12月26日(木)
39 両親は、主の律法にしたがってすべてのことを成し遂げたので、ガリラヤの自分たちの町ナザレに帰って行った。
40 幼子は成長し、知恵に満ちてたくましくなり、神の恵みがその上にあった。
主イエスさまは、ご自身の成長のすべてを両親であるヨセフとマリアにゆだねられました。ヨセフとマリアは、あの天使のお告げに応えて、忠実に幼子を育てていきました。
このころの多くの家庭がそうであったように、両親は律法を守り、また子どもの養育においては、十分な栄養と活動を与えました。幼子は心身ともに豊かに成長しました。それを聖書は「神の恵みがその上にあった」と語ります。
新共同訳では「神の恵みに包まれていた」と訳されています。原文では単純に「上に」と訳される言葉ですが、こんな風な日本語になるとなにか心が温まります。恵みというのは、私たちを包み込むものなのです。
全能の神が、ご自身の成長を、欠けだらけであるはずの人間にゆだねておられます。まさに奇跡です。
かつて神さまは、ご自身の言葉によって、地のちりから人間をお造りになりました。ご自身の息吹をお与えになりました。人間は神に似せて造られました。神さまのその創造のわざに人間は入り込む余地がありません。圧倒的な神の全能によって、人間は創造されたのです。
その被造物でしかない人間に、神さまはご自身の成長をゆだねられたのです。
聖書は「幼子は、成長し」と語ります。イエスは成長し、と書いても差し支えのないところですが、わざわざ幼子という言葉が使われています。幼子、子どもと訳される言葉ですが、同じ語源の言葉には、教えられなければならない者、という単語があります。
神さまは、教えられなければならない存在、となられたのです。ここにまことの神の謙遜があると思います。
世の偉人の中には、生まれたと同時に知恵や力に満ちていたいたと言われるような存在があります。そのほうがありがたみがありますし、人間離れしていたほうがより神さまらしいという感じもします。
しかし、神が人間となられた、人となられた、というのは、まことの謙遜の中に身を置かれたことであり、それは、教えられなければならない存在、養育されなければならない存在となられた、ということにおいて、明らかにされた、と聖書は語るのだと思います。
何の努力もせずに知恵と力に満ちておられる存在であったならば、成長における私の努力や忍耐を分かっていてくださるように思えないのですが、この幼子となられた主イエスさまならば、分かってくださるお方であると感謝しています。