静まりの時 マタイ3・1~6〔栄光の主の審判〕
日付:2024年12月19日(木)
4 このヨハネはらくだの毛の衣をまとい、腰には革の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった。
キリストが公生涯をお始めになるまえ、その道を整えるために一人の人物があらわれました。ヨハネです。すでにルカの福音書では、その誕生が主イエスに先立つものであったと語られています。今日クリスマスの祝いは12月25日となっていますが、その六か月前の6月25日は、このヨハネの誕生として祝われます。
ヨハネは、その活動から「バプテスマのヨハネ」(洗礼者ヨハネ)と呼ばれるようになります。神の国が近づいた、悔い改めよ、と語り、ヨルダン川で人びとに洗礼を授けていました。大勢の人たちがやって来ました。
やって来た大勢の人たち。自らの罪に悩み、一つの解決を求めてやって来たのだと思います。当時罪の解決であれば、それに答えてくれるはずの宗教施設はすでに存在していました。しかしこの突如として現れたバプテスマのヨハネのところに人びとはやって来たのです。既存の宗教施設、宗教活動が力を失っているかのように。
らくだの毛の衣をまとい、革の帯を腰に締め、口にするものといえば、いなごと野蜜。そのヨハネは、街中ではなく人里離れた荒野にいます。この世離れした生き方がそこにあります。そこにすでに当時の社会に対する批判があるとある先生は言われました。しかしそのヨハネのところに多くの人たちがやって来たのです。この世に迎合しないところに、自らを生かす真理があると人びとは見て取ったのです。
教会で行っている礼拝、聖書の学び、は、もしかしたらこの世から少しずれていることかもしれません。もっとこの世のニーズに合ったやり方で活動しなければならないとの声も確かに大切です。しかし、このバプテスマのヨハネのところにこそ、多くの人たちがやって来たことを思うと、教会は時代の波に流されることなく、伝えるべき真理を語る続けなければならないと思いました。