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この方は恵みとまことに満ちておられた

静まりの時 ヨハネ1・14~18〔みことばの光〕
日付:2024年12月14日(土)

14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

 罪びとにっての「恵み」とは、その罪が赦されることです。罪びとは自らの力によって、その罪を償い、赦しの道を開くことができません。しかしその罪びとを裁くことのできるお方が裁くことをせず、一方的に赦してくださったならば、それはまさに「恵み」です。
 まこととは、正義が守られること、です。罪びとにとっての「まこと」とは、自らが裁かれる、そうして正義が守られることです。しかしそれでは罪びとにとって「恵み」がありません。
 恵みとまこと、とは共存することのできないものであるはずです。しかしこの共存することのできなかった恵みとまことが、主イエス・キリストにおいて一つとなりました。このお方は恵みとまことに満ちておられました。降誕、生涯、十字架、そして復活の主は、恵みとまことに満ちておられます。恵みとまこと。すなわち愛と義に満ちておられます。

 主は、神であるにも関わらず、それに固執せず、人となってくださいました。人となって私たちの間に住んでくださいました。
 私たちはこの方の栄光を見ました。栄光とは、旧約聖書のヘブル語では、重たい、という意味を持っています。神さまの存在感がある。
 神さまはどこにおられるのか。神さまが確かに生きて働いておられることは、どのようにして明らかになるのか。神は圧倒的なご自身の存在感を明らかにするために、人となられた。私たちは、飼い葉おけに寝ておられるみどりごに、神のしるしを発見します。
 ピリピ2章7節によると、人となれたということは、しもべとなられたということです。私たちに仕える私たちのしもべとなられたのではありません。神さまのしもべとなられました。神さまに対して従順な生を全うされたのです。実に十字架の死にまでも従われました。この十字架の主を、神は高く上げ、すべての名にまさる名をお与えになりました。ここに神の栄光が輝いています。まさに十字架の主は輝いているのです。これこそ、まことの神であると、聖書は語ります。

 神がその存在感を明らかにされるというと、奇跡が行われる、とか、圧倒的な力が示されるといったことを想像します。しかし聖書は、このしもべとなられた神こそ、まことの神である、と語ります。私たちが慕うような見栄えもない姿となられた主。これこそ、恵みとまことに満ちておられる神の姿である、と語るのです。

 恵みか、あるいはまことかのいずれか一方しか存在しないこの世に、恵みとまことをもたらしてくださった主。クリスマスは、この主の奇跡を、私のために奇跡としてお祝する日です。


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