静まりの時 第二テモテ3・14~17〔みことばの光〕
日付:2024年12月 9日(月)
14 けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。
「けれども」。直前の文章には「キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。悪い者たちや詐欺師たちは、だましたり、だまされたりして、ますます悪に落ちて行きます」とあり、これに続いての「けれども」ですから、どんなに世が悪に落ちていったとしても「あなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい」。
学んで確信したところにとどまることができなくさせるものが、まわりにたくさん出て来る。しかしとどまっていなければならない。それが伝道者として生きる道である。パウロはそうテモテに語りました。
とどまることがむずかしい。それが伝道者の誘惑である。しかしとどまらないならば、伝道者の働きが難しくなってしまう。とどまらずに為す働きはもはや伝道者の働きとはならない。どうすればとどまっていることができるのか。
あなたは自分がだれから学んだかを知っており、
15 また、自分が幼いころから聖書に親しんできたことも知っているからです。
とどまり続けるための秘訣として、二つのことが書かれています。一つは、自分がだれから学んだかを知っていること。もう一つは、聖書、です。
ここで聖書のみと言いたいところですが、パウロは教えを伝えた「人」をまず挙げています。福音は人を通して伝えられる。神さまはそのようにお考えになりました。人格をお持ちの神さまを宣べ伝えるのに、人格を持った人間を用いようとなさったのです。それはまた愛を宣べ伝えるということでもあります。愛は、人格を通して伝えられていくのです。
しかし人間には限界があり、また欠陥があります。自分に福音を教えて下さった人が、必ずしも覚えていたい人物であり続けるとは限りません。
それでも、自分が福音を信じた時には、その時宣べ伝えて下さった人は、確実に神さまのしもべであったのですから、やはり覚えていることは大切なことだと思います。
あるいは、それだけではなく、自分に福音を宣べ伝えて下さった人も、誰かから伝えられて信仰に生きる人となったのですから、そうして順にさかのぼっていくと、結局、12人の弟子たち、初代教会のつながっていきます。誰から学んだかを知っている、ということは、教会の歴史を学び、忘れない、ということと考えてもよいかも知れません。
キリスト者は誰一人、この歴史と離れては信仰に生きることができないのです。
聖書はあなたに知恵を与えて、キリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができます。
16 聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。
17 神の人がすべての良い働きにふさわしく、十分に整えられた者となるためです。
そして「聖書」。聖書はすべて神さまの霊感によって書かれたものです。どの言葉一つをとってみても、そこに神さまの霊感が充満しています。
これは、どの言葉も、直接的に私を生かす者として教えを福音でいるのか、ということちょっと違うように思います。たとえば、聖書をパッと開いて、そこにたまたま以下の言葉が見つかりました。
「そして出て行って首をつった。」(マタイ27・5)
次に開いてみたところが、以下のところであった。
「するとイエスは言われた。『あなたも行って、同じようにしなさい。』」(ルカ10・37)
これによって、自らも首を吊ろうと思う人はいないと思いますし、神さまはそんなことを語っておられるのではないことは明らかです。
昨日幕の内弁当のお話しをしてしまいましたが、ちょうどそのようなものと考えて良いのではないかと思います。メインになる焼き魚や照り焼きもあれば、酢のものもありお漬物もあります。すべて、料理人の手によるものです。しかしすべてがそのまま食べるものに滋養を与えるのか。つまりお漬物だけを食べていて、体が健康に保たれるのか、というとそうではありません。全体のバランスの中で食べるからこそ、お漬物も意味があり、ご飯にかかったゴマも効いてくるのです。かといってお漬物もたしかに料理人の手によるものであることは間違いがありません。
これと同じように聖書はすべての神さまの霊感によるものです。しかし全体を読んで、その上で一つひとつの言葉を読んでいかなければならない。つまり書かれた目的に従って読まなければなりません。別の言い方をするならば、教理的に読まなければならないのです。そうでなければバランスの悪い食事となり、結局、体を壊してしまいます。
しかし教理的に読んでいくならば、すべての言葉が調和をもって、私たちのたましいに響いてきます。私たちを生かすものとなります。別の言い方をするならば、神さまへの愛、神さまへの礼拝の心、祈りの心、そして隣人への愛をもって聖書を読むということです。それを見失わないで聖書を読むならば、かならず聖書のすべてが、「教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益」となり、また「 神の人がすべての良い働きにふさわしく、十分に整えられた者となるため」に用いられるのです。