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私の後に来られる方は私よりも力のある方です

静まりの時 マタイ3・7~11〔あなたの主が来られる〕
日付:2024年12月 7日(土)

11 私はあなたがたに、悔い改めのバプテスマを水で授けていますが、私の後に来られる方は私よりも力のある方です。私には、その方の履き物を脱がせて差し上げる資格もありません。

 バプテスマのヨハネは、自らが授けているバプテスマが、悔い改めのバプテスマではあるが、それを水で授けている、と語ります。それに対して、私の後に来られる方、すなわち主イエスは、自分よりも力のある方である。自分などは、その方の履き物を脱がせて差し上げること、つまり奴隷がするようなことさえする資格がない者である、といいました。
 バプテスマのヨハネは、自分が授けているバプテスマは、完全なものではない、ということをわきまえていました。パリサイ人をも含む大勢の人たちがヨハネの行っているバプテスマを求めてやって来たのです。何ものかになったかのような錯覚をもってもおかしくないような状況です。しかし自分を見失いませんでした。ここにバプテスマのヨハネの偉大さがあると思います。
 伝道者への誘惑は、自己憐憫、自己卑下もありますが、逆に高慢になってまるで自分が神にでもなったかのような錯覚を持ってしまうことです。この誘惑の中で行き詰まることになった伝道者はたくさんいるのではないかと思います。
 伝道者だけではありません。おおよそ人間はこの誘惑の中に置かれています。創世記3章で蛇から受けた誘惑に始まって、人類がみな経験している誘惑です。「それを食べるそのとき、目が開かれて、あなたがたが神のようになって善悪を知る者となることを、神は知っているのです。」(創世記3章5節)

その方は聖霊と火であなたがたにバプテスマを授けられます。

 主イエスは、私たちに「聖霊と火」のバプテスマを授けて下さいます。火についての説明は12節にあります。きよめのことです。バプテスマ、すなわち洗礼は、きよめを含んでいる。少なくともその方向性を持っているのです。洗礼を受ける者は、自分の罪との闘いを決意しなければなりません。
 「聖霊のバプテスマ」はさまざまに理解され、時に利用されてきました。私たちが教会で牧師から授けていただく洗礼は、「水のバプテスマ」であって、信仰生活の中できよめを経験することが、「聖霊のバプテスマ」である、と言われたり、その聖霊のバプテスマには、いろいろな現象が伴うと言われたり、それには異言を語る、ということがあると言われたり・・・。
 しかし、私たちが教会で牧師から受ける洗礼は「父と子と聖霊の御名によって、洗礼を授けます」との言葉によって行われます。つまり教会の洗礼式は、いわゆる単なる儀式ではなく、聖霊のバプテスマそのものなのです。自分がどのように感じても、また感じなくても、神さまご自身が授けてくださるものであり、神さまからの圧倒的な力がそそがれていることなのです。ですから洗礼を受けているなら、もし、あなたは聖霊のバプテスマを受けましたか、と誰かに問われたら、はい、授けていただきました、と胸を張って答えることができるのです。では、異言が語れますか、どんな体験をされましたか、と重ねて問われるならば、そういう私の側の感覚はもしかしたらなかったかもしれませんが、そんなことよりも、イエスさまご自身の力がそそがれたことを信じています、と答えれば良いのだと思います。

27 彼女はイエスのことを聞き、群衆とともにやって来て、うしろからイエスの衣に触れた。
28 「あの方の衣にでも触れれば、私は救われる」と思っていたからである。
29 すると、すぐに血の源が乾いて、病気が癒やされたことをからだに感じた。
30 イエスも、自分のうちから力が出て行ったことにすぐ気がつき、群衆の中で振り向いて言われた。「だれがわたしの衣にさわったのですか。」
(マルコ5章27~30)

 私のからだに感じることも大切ですが、それよりも、イエスさまが「自分のうちから力が出ていったこと」にすぐ気がつかれたことが大切なのです。そのことを信じるのが洗礼です。


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