静まりの時 ローマ13・11~14〔あなたの主が来られる〕
日付:2024年12月 2日( 月)
11 さらにあなたがたは、今がどのような時であるか知っています。あなたがたが眠りからさめるべき時刻が、もう来ているのです。私たちが信じたときよりも、今は救いがもっと私たちに近づいているのですから。
「今がどのような時であるか知っている」。キリスト者は時を知っている。教会は時を知っている。
遊びに出かけた子どもが、日が暮れるのも忘れて遊びに興じ、気がつけばあたりは真っ暗で、カラスの泣き声も聞こえなくなり、急に心細くなってしまいます。時を知らない子どもは心細くなります。しかし時を知っている子どもは、日が傾くのを感じ、カラスの書き声も聞きながら、そろそろお母さんが夕飯を作ってくれている時間であると察知しています。後ろ髪を引かれる思いがないわけではありませんが、母の作る夕飯には間に合いたいと、遊びが途中であってもそれを止めて帰宅します。
教会は、時を知っている。いまがどんな時であるのか。私たちはどのような生き方をすべきなのか、を知っているのです。眠りから覚めるべき時が来ている。信じて洗礼を受けた時よりも、さらに再臨の時は近づいている。救いの完成の時が近づいている。
12 夜は深まり、昼は近づいて来ました。ですから私たちは、闇のわざを脱ぎ捨て、光の武具を身に着けようではありませんか。
「夜は深まり、昼は近づいて来た」。夜が深まるというと、闇が深まるという印象ですが、原文では「進む」という意味で、夜が進み、まもなく夜明けがやってくる、という意味です。東の空がすこし明るくなっている。
キリスト者は、そして教会は、それを知っている。闇のわざを脱ぎ捨てよう。光の武具を身につけよう。寝巻を脱ぎ、身支度を整えよう。歯磨きをし、顔を洗い、髪を整えよう。出かける準備をしよう。
13 遊興や泥酔、淫乱や好色、争いやねたみの生活ではなく、昼らしい、品位のある生き方をしようではありませんか。
14 主イエス・キリストを着なさい。欲望を満たそうと、肉に心を用いてはいけません。
闇のわざとはなにか。「遊興や泥酔、淫乱や好色、争いやねたみの生活」。新共同訳では「酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみ」、共同訳2018では「馬鹿騒ぎや泥酔、淫乱や放蕩、争いや妬み」。
これに対して昼間らしい、光の生活とは、「品位のある生き方」。
品位。原文ギリシャ語では、良い姿、というような意味の言葉です。たたずまいが美しい。そのような生き方のために、「主イエス・キリストを着る」。寝巻のままだと背筋が伸びないのですが、礼服にでも身をつつめば、あるいは着物でも着れば、その衣装に矯正されて、美しいたたずまいとなる。中身は同じなのですが、着るものによって、姿勢が変わる。
欲望を満たそうとしない。そのために心を用いない。先の「遊興や泥酔、淫乱や好色」そして「争いとねたみ」。自分自身の内面における闇、そして人間関係における闇。いずれの闇も捨て去ろう。光の武具を身につけよう。品位のある生活をしよう。キリスト者は時を知っているのだから。
これはアウグスティヌスが回心の時に読むことになった御言葉です。
「わたしはこのように訴えて、わたしの心はひどく苦しい悔恨のうちに泣いていた。すると、どうであろう、隣の家から、男の子か女の子か知らないが、子供の声が聞こえた。そして歌うように、『取って読め、取って読め』と何度も繰り返していた。・・・わたしが聖書を開いて最初に目にとまった章を読めという神の命令に他ならないと解釈した。・・・それでわたしは、急いでアリピウスが坐っていた場所に引き帰した。わたしはそこを立ち去るとき、使徒の書をおいておいたのである。わたしはそれを手に取ってみて、最初に目に触れた章をだまって読んだ。『宴楽と泥酔、好色と淫乱、争いと嫉みを捨てても、主イエス・キリストを着るがよい。肉の欲望を充たすことに心を向けてはならない』。わたしはそれから先は読もうとはせず、また読むにはおよばなかった。この節を読み終わると、たちまち平安の光ともいうべきものがわたしの心の中に満ち溢れて、疑惑の闇はすっかり消え失せたからである。」(服部英次郎訳、『告白(上)』、岩波書店、1976年発行、280頁f)