目を覚ましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くして祈りなさい

静まりの時 エペソ6・10~20〔目をさまして〕
日付:2024年11月30日( 土)

10  終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。
11 悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい。
12 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。
13 ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、一切を成し遂げて堅く立つことができるように、神のすべての武具を取りなさい。
14 そして、堅く立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、
15 足には平和の福音の備えをはきなさい。
16 これらすべての上に、信仰の盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢をすべて消すことができます。
17 救いのかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち神のことばを取りなさい。

 私たちが神さまに造られたとき、神さまは目的をもって私たちをお造りになりました。創世記を読むと、すべての創造物の冠のように人間をお造りになっておられます。そうして安息日を設けられました。安息日には、すべての創造のわざをやめられたのですが、それは人間との親しい交わりの中に生きることを願われたからだと思います。そうしてエデンの園に生きる者としていただきました。
 しかし人間は罪を犯しエデンの園を追われます。それからの罪の歴史は21世紀を迎えてますます混迷と混乱の中にあります。そのような破壊された人間を救うために、二千年の昔、御子イエスさまがこの地に、私たちの世界に来て下さいました。まことの人間としての歩みを全うしてくださいました。神さまに従順に生きる道を全うしてくださり、十字架の死にまでも従ってくださいました。そうして本当の人間の歩みを実現してくださったのです。神さまはこの主イエスさまを復活させてくださいました。十字架と復活によって、人間の罪の一切が赦され、罪の力である死をも滅ぼしてくださいました。
 主への信仰に生きる者は、新しく造られた者です。自己中心の罪から解放され、神さまを讃美し、敬い、神さまに仕える者へと変えられたのです。再びエデンの園に生きる者とされたのです。救われた者は、神さまが私たちを造られた本来の目的に生きる者となりました。
 しかし依然地上には悪があります。また私たち自身も新しくされたとはいえ、地上に生きている限り、罪赦された罪びとでしかありません。信仰に生き続けるためには、信仰の戦いが起ってきます。主の御心を選択するための戦いがあるのです。その戦いに勝利し続けるために、パウロは「神の武具」をとりなさい、と語りました。自分の知恵や力、経験で戦うのではなく、神さまのすべての武具によって戦う。それが信仰生活の戦いである、といいます。
 「真理」「正義」「平和」「信仰」「 救い」「神のことば」。これらは神さまが与えて下さる武具である。信仰者は、このような武具によって戦う。人間的な力によって戦うのではない。人間的な力では勝利することができないであろう。しかしこれらの武具であれば勝利の道が開かれる。私たちの信仰の戦いはどのような戦いだろうか。このような武具で戦おうとしているだろうか。神さまが与えて下さる真理や義があるだろうか。平和や平安があるだろうか。信仰、信頼によって歩んでいるだろうか。救いがあるだろうか。神さまのことばによって戦おうとしているだろうか。

18 あらゆる祈りと願いによって、どんなときにも御霊によって祈りなさい。

 「祈りと願い」。ピリピ書にもよく似た表現があります。パウロは祈りと願いを並列に表記します。祈りと言うと、それは願いのことではないか、と言いたくなりますが、パウロにとって、それは区別されることだったのかもしれません。では、願いと区別される祈りとはいったいなんであるのか。願いを含まない祈りとはいったいどのような祈りなのか。

 救われたということが、再びエデンの園で生きることであり、神さまとの豊かな交わりの中に生かされることである。そうであれば、神さまとの生活において、口を開けば常に願いが出て来る、という関係はあまり健康的な関係とは言えないですね。
 家族の中で、子どもが親に口を開くときはいつも「~してください」であれば、親としてはちょっと辛い。ああしてください、こうしてください、ばかりを聞かされ続ける神さまの身になってみれば、どうなのでしょう。
 御霊に祈る、ということを異言で祈ると解釈する人もいるようですが、それもどうなのでしょう。神さまは私たちにことばを与えて下さいました。その言葉を用いないで祈る祈りを神さまはお望みなのだろうか。神さまは私たちと人格的な交わりをお求めになっておられるのではないだろうか。それがエデンの園に生きることではないだろうか。
 願いではない祈り。たとえば、神さま、今日は良い天気ですね、ずいぶん寒くなってきました、いまどんなご気分ですか、などなど、神さまのみこころを尋ねてみる。あるいは明確な願いがなくても、これこれのことで困っているのですが、どうすればいいでしょう、とか。あまり世間話というのもどうかとは思いますが、御霊なる神さまが、ともにいてくださるのですから、安心して心を注ぎだせばいいと思います。

そのために、目を覚ましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くして祈りなさい。
19 また、私のためにも、私が口を開くときに語るべきことばが与えられて、福音の奥義を大胆に知らせることができるように、祈ってください。
20 私はこの福音のために、鎖につながれながらも使節の務めを果たしています。宣べ伝える際、語るべきことを大胆に語れるように、祈ってください。

 そうして聖徒のために祈りなさい、また私のために、福音の奥義を、語るべきことを大胆に語れるように祈ってほしい、といいます。

 聖徒のために祈るとなると、そこには願いが多分に想像されますが、そこでこそ願いではない祈りをささげなければならないのかもしれません。ああしてください、こうしてくださいだけではなく、それも大切ではありますが、神さまのみこころを私が尋ね求める祈りを為すことが大切かもしれません。神さま、私はいったいどのように祈るべきでしょうか、など。

 伝道者、説教者が、福音の奥義を大胆に知らせることができるように、大胆に語れるようにと祈ってほしい。どうして大胆に語れるようにとの祈りが求められているのか。大胆に語ることを出来なくさせている何かがあるのか。そうであればそれはいったい何か。
 テモテの手紙でパウロは、「人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと、自分の好みにしたがって自分たちのために教師を寄せ集め、真理から耳を背け、作り話にそれて行くような時代になる」(第二テモテ4・3,4)と語っています。これが大胆に語ることを妨げることであるとすれば、問題はこの世ではなく、教会の中にあるということになります。またその問題によって、説教者自身が委縮してしまい、人の顔色をうかがうようなことばを語るようになる。もしそういうことであれば、もはや教会は救いを語るところでなくなってしまいます。
 説教者が大胆に福音を語ることができるようにと教会が祈るということは、どのようなことばが語られようとも、そのみ言葉を受け止め、それによって自らを省み、新しく生きることを決意している教会である、ということではないかと思います。


投稿日

カテゴリー:

投稿者:

タグ: