静まりの時 詩篇107・1~9〔いのちのパン〕
日付:2024年11月20日( 水)
第五巻
1 「主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。
その恵みはとこしえまで。」
2 主に贖われた者は そう言え。
主は彼らを敵の手から贖い
3 国々から彼らを集められた。
東からも西からも 北からも南からも。
主に贖われる。贖いとは罪などの代わりをすること、と言う意味ですが、新聖書辞典には次のように説明されています。
「贖いということばの聖書的概念は,ただ単に救出するという一般的な概念ではなく,買い取る,あるいは,身の代金を払って身受けするという概念である」
神さまはその圧倒的な力で救い出してくださった、という意味だけではなく、救い出すために、身代金、を支払ってくださった。神さまがそのような犠牲を払ってくださった、という意味を持っているのだと思います。
贖われた目的は、あるいは贖われた者の状態は、「国々から彼らを集められた」。個人的な祝福ではなく、集団的祝福、共同体的祝福が贖いの目的です。
ここでその祝福、恵みを喜び感謝しています。
4 彼らは荒野や荒れ地をさまよい
人が住む町への道を見出せなかった。
5 飢えと渇きによって
彼らのたましいは衰え果てた。
6 この苦しみのときに 彼らが主に向かって叫ぶと
主は彼らを苦悩から救い出された。
7 彼らをまっすぐな道に導き
人が住む町へ向かわせた。
8 主に感謝せよ。その恵みのゆえに。
人の子らへの奇しいみわざのゆえに。
9 まことに主は 渇いたたましいを満ち足らせ
飢えたたましいを良いもので満たされた。
贖われなければならなかった民の状態とは、「飢えと渇きによって」「たましいは衰え果て」ている状態でした。なぜ飢えていたのか。なぜ渇いていたのか。
彼らは、「人の住む町への道を見出せなかった」のです。荒野、荒れ地にさまよっていました。なぜ人の住む町への道が見いだせなかったのか。それは神さまに贖われていなかったからですが、それはまた神さまへの道を見出せていなかったからではないかと思います。
主はそのような民を贖ってくださいました。贖われた民は、人の住む町への道を見出すことができます。そうして渇いたたましいを満ち足らせていただき、飢えたたましいを良いもので満たしていただきました。
私たちの人生の問題はこの「人の住む町への道」が見出せないことにあるのではないか。人の住む町への道。すなわち人とどのように生きていけばいいのか。人の心にどのようにたどり着けばよいのか。それが分からないのです。見出せないのです。
それはまた自分という一人の人への道が見いだせない、ということでもあります。どうして私はこうなんだろう、と自分を省みてがっかりしたり情けなくなったりします。
しかし主は贖ってくださいます。そうして自分への道、隣人への道を教えてくださいます。そのようにして、私たちは、飢え渇きが満たされていきます。私たちを贖うために、主はこの地にご降誕くださり、十字架と復活の御業を成し遂げてくださいました。
「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」マタイ11・28