その時刻が来て

静まりの時 ルカ22・14~20〔いのちのパン〕
日付:2024年11月18日( 月)

14 その時刻が来て、イエスは席に着かれ、使徒たちも一緒に座った。
15 イエスは彼らに言われた。「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたと一緒にこの過越の食事をすることを、切に願っていました。
16 あなたがたに言います。過越が神の国において成就するまで、わたしが過越の食事をすることは、決してありません。」

 「時刻が来て」。定まった時刻があった。その時刻がやって来た。礼拝や何かの式が始まるときに、定刻が参りました、という場合があります。定められた時間。いったいだれが定めたのだろうか。
 過越の食事の時間は定められたものだったのかもしれません。それでその時刻が来た。

 礼拝の時間がいまのように午前10時ごろに定まったのは、中世から、と言われます。農耕社会では、朝の10時ごろが一息つけるときであり、多くの人が参加しやすい時間であったからとのこと。冠婚葬祭でも、本人たちの都合や招待する人が参加しやすい日程を組みます。多くの場合、人間が中心となって、時刻が定まります。
 しかしこの時の「その時が来た」は、ひたすらイエスさまの時間設定と考えるべきではないか。

 「イエスは席に着かれ」。「時」の創造者である主自らが、その「時」の支配の中に身を置いておられる。時刻が来たので、イエスさまは席に着かれました。
 「使徒たちも一緒に座った」。イエスさまが席に着かれたので、使徒たちも一緒に座った。
 ここに「使徒」という言葉が出てきます。後に教会の中で、特別な立場をもって教会を導いた人たちです。使わされた者、という意味です。福音書では、12人の弟子たちに対しては多くの場合「弟子」という言葉が使われていますが、ここで「使徒」という言葉がわざわざ使われています。こののちに最初の聖餐式が行われるのですが、イエスさまはこの聖餐式を切望されていました。

17 そしてイエスは杯を取り、感謝の祈りをささげてから言われた。「これを取り、互いの間で分けて飲みなさい。
18 あなたがたに言います。今から神の国が来る時まで、わたしがぶどうの実からできた物を飲むことは、決してありません。」
19 それからパンを取り、感謝の祈りをささげた後これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられる、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」
20 食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による、新しい契約です。

 この最初の聖餐式には、イスカリオテのユダもいます。他の弟子たちも、まもなく十字架に向かわれるイエスさまを裏切ります。しかしその弟子たちが「使徒」である、そして主の聖餐にあずかる人たちと聖書は語ります。


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