静まりの時 ローマ5・12~17〔失われた者の救い〕
日付:2024年11月14日( 木)
12 こういうわけで、ちょうど一人の人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして、すべての人が罪を犯したので、死がすべての人に広がったのと同様に──
共同訳2018では以下のように訳されています。
「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです。」
罪と死がセットとなって世界に入り込んできました。その前はなかったのですね。入り込んできたのは、一人の人、すなわちアダムが罪を犯したことに起因します。しかしそうして「すべての人が罪を犯した」とパウロは語りました。
アダムが罪を犯したので、それがアダムにつづくすべての人類に遺伝的に罪が引き継がれ、すべての人が罪びとと呼ばれることとなった。すべての人が罪の性質を生まれながらに持っている。そう理解することもできると思います。
あるいは私たちは一人で生きていることができません。互いに関わり合いながら生きています。罪が入り込んできた結果、人類はその影響下にある。如何に罪を犯してはいないといっても、罪の影響下から逃れて生きることはできない。そう考えてもよいかもしれません。
しかしいずれにせよ、大切なことは、すべての人が罪を犯した、という場合、私も罪びとである、ということです。聖書は誰かの話しをしているわけではありません。この私の話しをしています。
私は罪びとであり、また死ぬ者である、ということが正確に理解されるところに救いはもたらされます。
13 実に、律法が与えられる以前にも、罪は世にあったのですが、律法がなければ罪は罪として認められないのです。
14 けれども死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々さえも、支配しました。アダムは来たるべき方のひな型です。
律法、すなわちルールがあるので、それに違反した、ということが了解されます。そもそもルールがなければ、罪も、そしてそれに伴う罰もありません。
律法が人類にもたらされたのは、モーセによります。ではモーセまでの間には、罪がなかったのか。そんなことはありません。罪はあったのです。人間は罪に支配されていたのです。そして死に支配されていました。
15 しかし、恵みの賜物は違反の場合と違います。もし一人の違反によって多くの人が死んだのなら、神の恵みと、一人の人イエス・キリストの恵みによる賜物は、なおいっそう、多くの人に満ちあふれるのです。
16 また賜物は、一人の人が罪を犯した結果とは違います。さばきの場合は、一つの違反から不義に定められましたが、恵みの場合は、多くの違反が義と認められるからです。
17 もし一人の違反により、一人によって死が支配するようになったのなら、なおさらのこと、恵みと義の賜物をあふれるばかり受けている人たちは、一人の人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するようになるのです。
アダムによって罪と死が入り込んできたのですが、それらから救うために、御子イエスさまがこの地に来て下さいました。これは恵みです。そして恵みの賜物です。
一人の人によって罪と死がもたらされたのと同じように、一人の人によって罪の赦しといのちが持たされました。アダムはイエスさまの「ひな形」です。しかしひな形以上の存在である、とパウロは言い直しています。恵みは圧倒的に重たいのです。
「違反(罪)」(15節)、「さばき」(16節)、「死」(17節)よりも圧倒的に大きい。それが恵みである、とパウロは語りました。