静まりの時 第一コリント1・26~31〔弱い者への招き〕
日付:2024年11月 6日( 水)
26 兄弟たち、自分たちの召しのことを考えてみなさい。人間的に見れば知者は多くはなく、力ある者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。
27 しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。
28 有るものを無いものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです。
29 肉なる者がだれも神の御前で誇ることがないようにするためです。
30 しかし、あなたがたは神によってキリスト・イエスのうちにあります。キリストは、私たちにとって神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました。
31 「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。
私たちが健やかに歩むために、あるいは私たちの人生が健やかなもの、平安なものとなるために、劣等感から解放されることは大切なポイントだと思います。劣等感の反対に優越感というのもありますが、優越感というのは、結局は劣等感の裏返しなので、優越感と劣等感から解放されるならば、私たちの人生は健やかで平安なものとなるのだと思います。
それは信仰の世界でも起こりうるものです。特にコリントの教会はその問題で倒れそうになっていた。優越感が他者に対して見下さす心を生み出していた。劣等感が、他者をうらやむ、他者へのねたみを生み出していた。そうして兄弟姉妹の中に亀裂が生まれていた。それがコリント教会の問題の一つであり、また最大のものであった。
パウロはそのコリントの教会に対して、もし誇るならば主を誇りなさい、と語りかけました。優越感も劣等感も、それは主ではなく自分を誇ろうとしていることである。
しかしこの「誇り」はなくても良いものなのか。誇りがあるからこそ、しっかりと生きようとも思うし努力をしようとも思うのではないか。
ただ「共に生きる」ということを実践しようとすれば、この優越感と劣等感にまつわる「誇り」は何らかの形で処方されていなければならないように思います。健やかな誇りを持つこと。劣等感からの自己憐憫でも自己否定でもなく、優越感からの他者否定でもなく、自分を真実に生かす誇りのあり方とは。
自分が選ばれたことの根拠、理由を考えてみる。何か人間的に誇るものがあると、それによって神さまに選ばれた、と思いはじめる。しかし真実に神さまのまえに立つならば、人間的に見れば何ひとつ誇ることはない。にもかかわらず神さまは選んでくださった。この喜びが福音なのだと思います。そしてこの喜びが確かにされるとき、兄弟姉妹とともに生きるということが可能となる。
ですから、いわゆる「弱い者」は幸いなのだと思います。下手に学歴があり、いろいろな能力があり、器用になんでもこなしてしまう、そしてそれを周りの人が評価している、そういう「豊か」な人は、なかなか難しいところに立たされます。
あるいは逆に、「弱い」ということを、不健全に誇ることも人間には起こってくる。パウロは別のところで「弱さを誇る」と言っていますが、それとは違った意味で弱さを誇る、弱さに胡坐をかくというか、弱さに開き直る、ということが起こる。それも結局、かなりゆがんだ形で自分を誇っていることであって、主を誇っているのではない。よく回心の証しの中で、私はこんなに悪さをしていました、こんなにとんでもない人間でしたと、話されることがありますが、ごくまれにそれを誇っているのではないか、と思えるような場面に出会ったことがありましたが、それは少し違うことですね。
主を誇ることはあんがい難しいことなのかもしれません。単純に主に救われたことを喜んでいられればどんなに良いだろうかと思います。礼拝は、私たちが真実に主を誇る場であり、また主を誇る訓練の場でもあるかもしれません。