静まりの時 第二コリント13・4~9〔弱い者への招き〕
日付:2024年11月 5日( 火)
4 キリストは弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられます。私たちもキリストにあって弱い者ですが、あなたがたに対しては、神の力によってキリストとともに生きるのです。
コリントの教会にはさまざまな問題があったと思いますが、それらはすべて罪の問題だったのだと思います。罪の問題とは、悪を行っていたということです。イエスさまの十字架を信じておきながらどうして罪を犯し、悪を行い続けることができたのか。
それは「十字架」に対する誤解があった、あるいはその理解が不十分であったということでしょう。
確かに、キリストは弱さのゆえに十字架につけられたのです。まことの神でありながらまことの人となって、人類の罪をすべて背負って死んでくださいました。罪に打ち負かされてくださいました。それをコリントの人びとは「弱い」と見たのだと思います。
なるほど、弱さのゆえに十字架につけられました。しかし今はどうか。その十字架の上で死なれたキリストは、父なる神さまによって復活させられ、いまは生きておられます。新しいいのち、永遠のいのちに生きておられる。
それは、結局弱さの中で死ぬということによって、罪に勝利する道をキリストは歩まれたのです。十字架の主をただ弱いとみるか、それともその弱さこそ私たちを救う強さであるとみるか。信仰の道は、十字架の弱さにこそ、神の強さがあると信じることです。
それと同じように、私たちもキリストにあって弱い者である。しかし今はキリストとともに、神の力によって生きる者とされた。十字架を侮ってはならない。そこにこそ神の力がある。十字架によってすべての罪は赦されたのだから、何をしてもいい、というのは、十字架を知らない者の言いぐさである。復活のいのちに生きる道が、そこに生まれたのだ。もしキリストにある、キリストとともに生きるというのならば、今復活のいのちに生きてるはずではないか。
5 あなたがたは、信仰に生きているかどうか、自分自身を試し、吟味しなさい。それとも、あなたがたは自分自身のことを、自分のうちにイエス・キリストがおられることを、自覚していないのですか。あなたがたが不適格な者なら別ですが。
自分のことを自覚する。自分で自分を知る。本当の自分を知る。そこに見えてくるのは、自分のうちにイエス・キリストがおられること。自分のうちにはイエスさまがおられる。それが自分を自覚することである。それができないと、十字架の前に開き直ってしまって、罪を容認する生き方となってしまう。それは十字架が分かっていないことである。それは不適格な者、つまり不信仰、あるいは救われていない者の姿である。
6 しかし、私たちは不適格でないことが、あなたがたに分かるように、私は望んでいます。
7 私たちは、あなたがたがどんな悪も行うことのないように、神に祈っています。それは、私たちが適格であることを明らかにしたいからではなく、私たちが不適格な者のように見えたとしても、あなたがたに善を行ってもらいたいからです。
どんな悪も行わない。それによって不適格でないことが明らかにされる。私たちのことはどうでもよい。あなたがたがひたすら適格な者であることが明らかになることを願っている。そのために善を行ってもらいたい。
この「あなたがたがどんな悪も行うことのないように」は共同訳2018では「神があなたがたをいかなる悪にもお定めにならないように」となっています。悪かどうかは神のみぞ知る、です。
8 私たちは、真理に逆らっては何もすることができませんが、真理のためならできます。
少しわかりにくい言葉ですが、この真理ということばは、一般的な倫理や哲学でいうところの真理ではなく、福音そのもののことです。「キリスト」と置き換えてもよいように思います。置き換えると次のようになります。
8 私たちは、真理(キリスト)に逆らっては何もすることができませんが、真理(キリスト)のためならできます。
善に生きる。罪を犯さない。真理に生きているならば、それが真理であるがゆえに、真理に逆らうように生き方はできないはずである。しかしそれが真理であるがゆえに、真理のためにならば、何でもできるのである。
9 私たちは、自分は弱くても、あなたがたが強ければ喜びます。あなたがたが完全な者になること、このことも私たちは祈っています。
とにかく、私たちのことは弱いとそしられても構わない。あなたがたは、本当の強さに生きてくれるならばそれでよい。あなたがたが完全な者になることを、ひたすら祈っている。
この「完全な者」を共同訳2018では、「初心に帰ること」と訳されています。不完全である、ということは、初心を忘れてどこか遠くまで来てしまったことである、というのです。完全な者となる、とは、最初の愛に帰ることなのです。
神学を学ぶということは、新しい知識を蓄えることでも、今まで誰も考えつかなかったような高尚な倫理を展開することでもありません。最初に出会った神さまの愛に出会い続けること、その愛の深さ広さを味わうことです。