あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないようにするためです

静まりの時 ヘブル12・1~3〔信仰の先達〕
日付:2024年10月29日( 火)

1 こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。

 雲のように私たちを取り巻いている「証人」がいる。信仰の先達たちが私たちを取り巻いている。私たちが神さまのご支配の中に生きる、すなわち今この時に天国に生きるのが信仰生活であるとするならば、天に帰られた人びとは、遠く離れている存在ではなく、私たちを取り巻いている。
 そうであるならば、私たちも彼らにならって、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てよう、そうして自分の前に置かれている競争を走り続けよう、忍耐をもって走り続けよう。
 重荷のない人生はありません。罪のない人生もない。それらが私たちの足取りを重くします。しかしイエスさまを信じる私たちをそれらを「捨てること」ができる。そうして軽くなって再び走り始めることができる。
 そのためには、

2 信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。

 走る道は定かではないかもしれない。しかし目当てをしっかりと持っているならば、多少道がたがえても前進することができる。走りとおすことができる。イエスさまから目を離さない。
 それはまた、イエスさまの後を進むことでもあります。自分の今歩む道が、イエスさまの後を歩む道であろうか。イエスさまの歩まれる道とは違う道を選択してはいないだろうか。イエスさまの背中をまっ直ぐに見ているだろうか。それとも、横に見て、それを通り過ぎようとしてはいないだろうか。

この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。
3 あなたがたは、罪人たちの、ご自分に対するこのような反抗を耐え忍ばれた方のことを考えなさい。あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないようにするためです。

 イエスさまは十字架を忍ばれました。十字架を忍耐されました。そうして神の御座の右に着座されました。
 「ご自分の前に置かれた喜びのために」。欄外の注をみると「代わりに」とあります。新共同訳では「御自身の前にある喜びを捨て」。これはどちらでも訳すことが可能だからということですが、意味は逆になるように思います。喜びを求めて十字架を忍耐されたのか、それとも、喜びを捨てて十字架を忍耐されたのか。
 イエスさまにとって、十字架は一切の喜びを捨てることであったと同時に、それこそイエスさまの喜びであった、ということだと思います。
 もし私たちがこのイエスさまの背中を見て、イエスさまの後をついて行くとすれば、そのような喜びを求めて生きるということでもあります。人間的な喜びは一切捨てて、ひたすら十字架を忍ぶ、忍耐する、それがまことの喜びである。それがイエスさまを目当てに歩む人生の歩み方である。不確かな道であっても確かに歩む生き方である。

 十字架を忍ばれたということを、3節において別の言葉で言い表されています。「罪人たちの、ご自分に対するこのような反抗を耐え忍ばれた」。罪びとの罪なる生き方は、イエスさまへの反抗である。イエスさまはその反抗を忍ばれた。それが十字架の苦しみであった。
 私たちが、罪に生きているとき、自分勝手に、人間的な思いで生きているとき、それがイエスさまを十字架につけたのだ、それがイエスさまが忍耐してくださったものであったのだ、ということを忘れてはなりません。神が苦しまなければならないほどの罪。それが私の罪であり、私自身なのです。と同時に、そうまでして私を救いたいと願ってくださった。それがわたしの喜びなのだ、と語っていてくださる主を見上げたいと思います。
 それが「心が元気を失い、疲れ果ててしまわないようにするため」である、というのです。もし私たちの心が元気を失っている、疲れ果てている、とするならば、それは十字架の主ではないものを見上げているからです。十字架を忍ばれた主の背中ではなく、別のものを見ようとしているからです。十字架に歩まれるイエスさまの後に続く道ではない別の道を選択しているからです。
 再び十字架に向かわれれる主の道を選択するならば、私たちの心は元気になります。その歩みには疲れ果ててしまうことがありません。


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