静まりの時 イザヤ62・6~12〔刈入れの時〕
日付:2024年10月23日(水)
6 「エルサレムよ、
わたしはあなたの城壁の上に見張り番を置いた。
終日終夜、
彼らは、一時も黙っていてはならない。
思い起こしていただこうと主に求める者たちよ、
休んではならない。
7 主を休ませてはならない。
主がエルサレムを堅く立て、
この地の誉れとするまで。」
捕囚からの解放、回復に向かって祈りがささげられ、その祈りを主が聞いてくださる。祈りを捧げる者は、その祈りを休んではならない、祈りの手を挙げ続けよう。主は力強く働いてくださる。主を休ませてはならない。主がエルサレムを堅く立ててくださる。その時まで休ませてはならない。
「主を休ませてはならない」は、まるで主を奴隷のように扱うようで、かなり違和感のある訳です。他の訳を見てみましょう。
「主がエルサレムを建て これを全地の誉れとされるまでは 主が休まれないようにせよ。」(イザ 62・7、共同訳2018)
「また、主の沈黙を招いてはならない。主が再建に取りかかり エルサレムを全地の栄誉としてくださるまでは。」(新共同訳)
こちらのほうが主に対して敬語が使われていて読みやすいですね。
8 主は右の手と力強い腕によって誓われた。
「わたしはあなたの穀物を
再び敵に食物として与えはしない。
あなたが労して作った新しいぶどう酒を、
異国の民が飲むことはない。
9 取り入れをした者が、
それを食べて主をほめたたえ、
ぶどうを取り集めた者が、
わたしの聖所の庭でそれを飲む。」
この時のイスラエルにとっての救いとは、捕囚からの解放であり、それは自らが植え育てた穀物、労して作った新しいぶどう酒を、自分たちで消費することができる、という喜びでした。それまでは奴隷のような状態だったのでしょう。自分で作ってもそれを自分を支配する者が奪い去っていく状態だったのだと思います。
救いとは、誰かの支配の中に生きることではなく、自分を生きることです。そのために自分を中心にするのではなく、神さまを主としていく。主の支配の中に生きる。それが誰かの支配から解放される道、自分を生きる道をひらきます。
10 通れ、通れ、城門を。
この民の道を整えよ。
盛り上げ、土を盛り上げて、大路を造れ。
石を除いて、もろもろの民の上に旗を揚げよ。
11 見よ、主は地の果てに聞かせられた。
「娘シオンに言え。
『見よ、あなたの救いが来る。
見よ、その報いは主とともにあり、
その報酬は主の前にある』と。」
12 彼らは、聖なる民、
主に贖われた者と呼ばれ、
あなたは、追い求められる者、
見捨てられることのない都と呼ばれる。
「娘シオン」はこの場合都エルサレムのことだと思います。主権が回復される、その時がやって来たと歌いました。
やがて、と、すでに、の間にあるのが、キリスト教信仰です。やがて救われる。すでに救われている。その間に私たちは生きています。やがて救われると聞くと、今は救われていないのか、と問われますが、そうではありません。完全に救われています。しかし完全に救われていると言いながら、依然私たちは罪を犯します。この命には死がやってきます。やがての時に完成するとの約束の中に生きています。その中間にあることを見失ってしまうと、途端に異端的になってしまいます。この緊張状態が、私たちを礼拝者として整えていきます。礼拝者として整えられることが、兄弟姉妹とともに生きる道をまた整えます。