静まりの時 ヨハネ4・31~37〔刈入れの時〕
日付:2024年10月21日(月)
31 その間、弟子たちはイエスに「先生、食事をしてください」と勧めていた。
サマリアの一人の女性との対話の間「弟子たちは食物を買いに、町に出かけて」(8)いました。買い物から帰ってきたらイエスさまが「女の人と話しておられるのを見て驚」きました。しかしそのことについて弟子たちは何も言いません。何も言わないで、食事をすすめようとしました。するとイエスさまは、おそらくサマリアの女性との対話について弟子たちに伝えたいことがあったのでしょう。話しは、弟子たちがすすめるいわゆる食物を例えとして「あなたがたが知らない食べ物」の話しをはじめられました。
32 ところが、イエスは彼らに言われた。「わたしには、あなたがたが知らない食べ物があります。」
33 そこで、弟子たちは互いに言った。「だれかが食べる物を持って来たのだろうか。」
弟子たちには、イエスさまが話そうとしておられることが分かりません。しかしイエスさまは話し続けられました。
34 イエスは彼らに言われた。「わたしの食べ物とは、わたしを遣わされた方のみこころを行い、そのわざを成し遂げることです。
食べ物は、私たちの肉体の空腹を満たし、栄養を与え、生きる力を生み出します。しかし人はパンだけで生きるのではありません。神さまが語られる一つひとつの言葉によって生きる者となるのです。神さまが語られるみ言葉、それがいのちのパンである、と聖書は語ります。その生けるみ言葉こそ、イエスさまご自身です。私たちはイエスさまによって生かされるのです。
それとともにここで新しく語られているのは、イエスさまを遣わされたお方、すなわち父なる神さまのみこころを行うこと、そしてそのわざを成し遂げることが、またイエスさまの食べ物である、と。神さまのみこころを行うことが、イエスさまの生きる力である。神さまのみこころを行うことによって、イエスさまは生きていくことができる、と言われました。福音書には、徹底して神さまのみこころをなそうとされる神の子イエスさまのお姿があります。ここにまことに人となられた神さまの姿が明らかにされています。
人間は、神さまのみこころに生きることによって、生きる者となるのです。アダムとエバによって罪が入って以来、人間はいつも「自分の願望」を実現することがその中心となりました。そうして死ぬ者となったのです。
しかしイエスさまを信じて、心の王座にイエスさまをお迎えして以来、神さまのみこころを行うことこそ、自らを生かすことを教えていただきました。もし生きている実感がないとすれば、それは自己実現できてないからではなく、神さまのみこころを為そうとしていないからではないか。自己実現に腐心しているからこそ、生きる実感が生まれないのではないか。
35 あなたがたは、『まだ四か月あって、それから刈り入れだ』と言ってはいませんか。しかし、あなたがたに言います。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。
つぎの36節の冒頭の「すでに」をこの35節の「目を上げて畑を見なさい」の前に置く読み方があると注に書かれています。共同訳2018はそちらを採用しているようです。目を上げると、すでに畑は色づき刈入れを待つばかりである。その実りが見えているだろうか。実りを見るために、目を上げているだろうか。
実りとは、伝道によって救われる人、と解釈されることが多いと思います。それも大切な読み方だと思います。それとともに、もう少し拡大して、人生の実り、個人的にも社会的にも様々な実りを発見していく。そのために目を上げる。「いまでしょう」という言葉が流行った時があったと思いますが、生きている「いま」こそ、本番なのです。
36 すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに至る実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。
37 ですから、『一人が種を蒔き、ほかの者が刈り入れる』ということばはまことです。
刈る者が喜ぶことは想像できるのですが、どうして蒔く者が喜ぶのか。「ともに喜ぶ」は、ただそれぞれが喜ぶという意味で書かれていることだと思いますが、これを一緒になって喜ぶと理解するならば、それも不思議な気持ちになります。
今私たちが刈り取る実は、すでに先人たちが蒔いた実を刈り取っています。一人で蒔いて一人で刈り取っている、ということが言えるところでも、そこで蒔かれた聖書のみ言葉は、誰かが翻訳してくださったものですし、またこの二千年間、先輩のキリスト者たちが語り伝えて下さったものです。膨大な数の人びとが蒔いてきてくださったのです。刈り取りの喜びは、その先人たちへの感謝の時です。刈り取りの喜びは、この感謝の喜びです。
蒔いた者の喜びは、どこに生まれるのでしょう。それは最終的には天国においてではないか、と思います。天国が想定されなければ、蒔いた者の喜びは生まれないのではないか。
そうすると蒔いた者と刈り入れる者が一緒に喜ぶのは、天国において、ということになります。少なくとも、この地上だけではありません。