静まりの時 マルコ1・9~20〔回心〕
日付:2024年10月19日(土)
9 そのころ、イエスはガリラヤのナザレからやって来て、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けられた。
10 イエスは、水の中から上がるとすぐに、天が裂けて御霊が鳩のようにご自分に降って来るのをご覧になった。
11 すると天から声がした。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ。」
ガリラヤのナザレからやって来られたイエスさまは、ヨルダン川でバプテスマのヨハネからバプテスマ(洗礼)を受けられました。バプテスマのヨハネの行っていた洗礼は、「罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマ」(4)であり「水のバプテスマ」(8)でした。本来この洗礼は、罪びとが受けるものです。罪のないイエスさまが受ける必要はありません。しかしイエスさまはそれを受けられたのです。他の福音書を見ると、バプテスマのヨハネは、洗礼を受けようとされるイエスさまに対して、自分こそあなたから受けるべきである、と語りイエスさまに洗礼を授けることを拒もうとすることが記されています。しかしイエスさまはバプテスマのヨハネを説得し、洗礼を受けられました。
罪のないお方が、罪びとと同じように洗礼を受けられた。罪びとと同じところに立ってくださった。罪びとの列に並んでくださった。それがイエスさまの宣教の始まりでした。
イエスさまが洗礼を受けられると、天が裂けて御霊が鳩のようにご自分に降って来るのをご覧になられました。イエスさま自身がご覧になられたのです。さらに天から声を聞かれました。「あなたはわたしの愛する子。わたしはあなたを喜ぶ」。
父なる神、子なる神、聖霊なる神の三位一体の神の喜びが明らかにされています。イエスさまは、父なる神さまの「喜びの声」をお聞きになって宣教を開始されました。
喜びの声を聞く。自らの出発において、神さまの喜びの声を聞く。神さまの喜びの声に押し出されて開始される。神さまの宣教はこうして始まりました。何かを開始するときに、神さまの喜びの声を、私たちは聞いているだろうか。
12 それからすぐに、御霊はイエスを荒野に追いやられた。
13 イエスは四十日間荒野にいて、サタンの試みを受けられた。イエスは野の獣とともにおられ、御使いたちが仕えていた。
宣教が開始されると、すぐにイエスさまは荒野でサタンの試みを受けられました。荒野とは、人のいないところ、という意味です。おひとりでサタン、悪魔の試みを受けられたのです。
サタンは、試みる者、です。真価を試そうと試験をしてくる。そうして神でもないのに、まるで神のように裁いたりおだてたりしてくる。人間はみなその試みの中に生きています。イエスさまは、そのような人間が受けるあらゆる試みを受けられました。イエスさまのまわりには野の獣がいました。そして御使いたちがイエスさまに仕えていました。
イエスさまはこの「悪魔の試み」を受けられて、宣教に前進して行かれます。
14 ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べ伝えて言われた。
15 「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」
イエスさまの宣教の言葉は、バプテスマのヨハネの逮捕の後に始まります。主の通られる道をまっすぎにせよ、との言葉に導かれて登場したヨハネが、その役割を終える、完了すると、主であるイエスさまの宣教が開始される。イエスさまこそ、旧約聖書においてご自身を現された主(ヤーウェ)である、と聖書は証言します。
イエスさまは、ガリラヤからその宣教を開始されました。大々的に新しい教えを始めるならば、都エルサレムからはじめることが、効率もよいし成果もあがるのではないか。しかし私たちのイエスさまは、都エルサレムからすると辺境の地といってもよいガリラヤから神の福音を宣べ伝えはじめられました。
神の福音は、効率や成果ということからはまったく別の小さなところから始まります。人間はそれを見過ごしてしまいます。都会より田舎、大勢より少人数、豊かさよりも貧しさ、きらびやかさよりも隠れたところ。そういうところから神さまの働きは始まります。
時が満ちた。時というのは満ちるものであり、満ちたならば、まるでコップを満たした水のようにこぼれ落ちてくる。もはや誰にも止めることができない。イエスさまの宣教は、神さまの御定めになった「時」に開始されました。すべてには時がある。神さまのなさることはすべて時にかなって美しいのです。
神の国、神さまのご支配が近づきました。いまだ完全には来ていない。しかしすでに来たという言葉をもって表現することがふさわしい時代を迎えている。列車が駅に到着すると、到着する前に人は言います。列車が来た、と。はるか向こうにヘッドライトが見えるというので、列車が来たよ。その声を合図に、人びとは列車に乗るために備えます。神の国が近づいた。その呼び声に、私たち人間は「備え」なければなりません。
備えとは何か。「悔い改めて福音を信じなさい」。
福音とはグッドニュース、良い知らせという意味です。当時戦勝終結の伝令のことを福音と呼んだそうです。もう戦争は終わった。これからは戦う必要はない。平和の中に、新しい時代が始まった。神さまの完全なご支配がやって来た、との知らせが届いたのです。私たちは、この呼び声に備えます。その備えとは「悔い改める」ということ、そして「信じる」ということです。
いくら戦争終結の知らせが届いても、それを信じないならばいつまでたっても戦争状態です。信じたとたんに戦争は終結します。そのためには「悔い改める」ことが必要です。
この場合、悔い改める、方向を変換するという意味です。自分が正しいと思っているうちは、戦争終結の知らせを信じることができません。自分の正しさを捨てて、神さまの正しさを受け入れる。自分を中心にしてきたけれども、これからは神さまの方向を向く。そうして信じるということが起こります。
この方向変換は、続いてイエスさまに召しだされる弟子たちの姿に明らかにされ提案す。彼らは、イエスさまから御声がかけられると、一切を捨ててイエスさまに従いました。イエスさまの御声に従いました。これが悔い改める、ということです。
16 イエスはガリラヤ湖のほとりを通り、シモンとシモンの兄弟アンデレが、湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。
17 イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」
18 すると、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った。
19 また少し先に行き、ゼベダイの子ヤコブと、その兄弟ヨハネをご覧になった。彼らは舟の中で網を繕っていた。
20 イエスはすぐに彼らをお呼びになった。すると彼らは、父ゼベダイを雇い人たちとともに舟に残して、イエスの後について行った。
イエスさまはご自身の宣教を、自分一人でなそうとされません。弟子たちを召されました。最初に召された弟子は、シモン(ペテロ)、アンデレ、ゼベダイの子ヤコブ、その兄弟ヨハネ、でした。彼らは、イエスさまに声をかけられると、すぐにイエスさまに従いました。
ペテロたちはすぐに網を捨てイエスさまに従いました。ヤコブたちは、舟に父を残してイエスさまについて行きました。弟子としての訓練は、召しの言葉が語られたその瞬間から始まっています。イエスさまの御言葉にすぐに、そして単純に従うかどうか。それまで自分を生かしてきたものを捨てて従うかどうか。弟子とは、イエスさまに従う者、という意味なのです。
イエスさまが最初に弟子として召されたのは、漁師たち、でした。宗教的な素養が十分にあったであろうと思われる人たちではありません。イエスさまは、その人の賜物を用いる方ではありますが、むしろ何もないような者をご自身の働きのために召されます。神さまは、賜物豊かな人ではなく、謙遜な人を用いようとなさいます。賜物豊かで謙遜であれば申し分ないのですが、罪びとである人間は、賜物が豊かであると、高慢になってしまいがちです。賜物があるかないかによらず人間は高慢になりやすいのだと思います。だからこそ、謙遜な人をご自身の働きのために召されるのです。あるいは召されて歩み始める弟子の道は、謙遜の道、高みに上る道ではなく、へりくだって下り続ける道なのです。