主よ、目が見えるようにしてください

静まりの時 ルカ18・35~43〔回心〕
日付:2024年10月18日(金)

35 イエスがエリコに近づいたとき、一人の目の見えない人が道端に座り、物乞いをしていた。
36 彼は群衆が通って行くのを耳にして、これはいったい何事かと尋ねた。
37 ナザレ人イエスがお通りになるのだと人々が知らせると、
38 彼は大声で、「ダビデの子のイエス様、私をあわれんでください」と言った。
39 先を行く人たちが、黙らせようとしてたしなめたが、その人はますます激しく「ダビデの子よ、私をあわれんでください」と叫んだ。

 「私をあわれんでください」。原文ギリシャ語で「エレーソン メ」。ラテン語では「ミゼレーレ メイ」。英語では「mercy on me」。礼拝の言葉です。
 主よ、あわれんでください。礼拝で私たちはこのように繰り返して祈るように招かれています。私はあわれんでいただかなければならないような存在である。神さまのあわれみがなくては生きていけない者である、と告白します。

40 イエスは立ち止まって、彼を連れて来るように命じられた。彼が近くに来ると、イエスはお尋ねになった。
41 「わたしに何をしてほしいのですか。」するとその人は答えた。「主よ、目が見えるようにしてください。」
42 イエスは彼に言われた。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救いました。」
43 その人はただちに見えるようになり、神をあがめながらイエスについて行った。これを見て、民はみな神を賛美した。

 「主よ、目が見えるようにしてください」。共同訳では「主よ、また見えるようになることです」。「また」ということは、再び、という意味ですから、以前は見えていたが何らかの理由で視力を失ってしまった、もう一度見えるようになりたい、と理解できます。新改訳では単純に、目が見えるようにしてほしい、との祈りと訳しています。
 本来「見る」という役割のために存在しているはずの目が、今現在は「見えない」状態となっている。生まれつき見えなかったのかもしれないけれども、そうであれば、なぜ目がそこにあるのか。見るという機能をもたない目ならば、いっそのこと存在しなくてもよかったのではないか。しかし神さまは目を創造してくださった。そうであれば、その目が、見えない目ではなく、見える目にしてほしい。本来の役割を取り戻してほしい。そんな意味かも知れません。
 この盲人は自分が見えない、ということを知っていました。それは当たり前のことかもしれません。しかしその見えない、という状態を、見えるようにしてほしい、と願いました。それをこの盲人は「あわれんでほしい」という言葉で祈りました。見えるようにできるのは、ダビデの子イエスさま、まことの神であるあなたにしかできないことです。人間には不可能なのです。どうか見えるようにしてほしい。
 私たちは、見えているだろうか。肉体の目もさることながら、心の目が見えているだろうか。パウロは見えないものは永遠に続く(第二コリント4章18節)と言いました。その見えないものを、見ているだろうか。
 神さまが見えないと、自分自身が見えない。自分の歩むべき道が、その先が見えない。ともに生きる人たちが見えない。その人たちの心が見えない。
 見えるようにしてほしい。見えるようにできるのは、主よ、あなたしかおられない。主よ、あわれんでください、と私も祈りたいと思います。

 主は「あなたの信仰があなたを救いました」と言われました。この盲人の信仰とは、自分が見えないことを知っていたこと、それを解決できるのは主だけであることを知っていたことです。私は自分が見えない者であることを知っているだろうか。私こそ見えているなどと思い上がってはいないだろうか。見えない状態を解決できるのは主だけであると信じているだろうか。自分の力で見えるようになるなどと高ぶってはいないだろうか。


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