自分自身にも、教えることにも、よく気をつけなさい

静まりの時 第一テモテ4・10~16〔回心〕

日付:2024年10月14日(月)

10 私たちが労苦し、苦闘しているのは、すべての人々、特に信じる人々の救い主である生ける神に、望みを置いているからです。

今週のテーマは「回心」。「かいしん」を辞書でひくといろいろ出てきますが、その中で「改心」というと「悪い心を改めること」とあります。それに対してこの「回心」は、「〔宗〕(conversion)キリスト教などで、過去の罪の意志や生活を悔い改めて神の正しい信仰へ心を向けること。なお一般に、同様の宗教的体験をいう」とあり、回心(えしん)、発心(ほっしん)という仏教用語が同じような言葉としてあげられています。

イエスさまを信じるということは、悔い改めを伴いますから、回心、です。もし単に悪い心を改めるということぐらいに考えているとすれば、それは改心であって、回心ではない。キリストを信じているとは言えないかもしれません。

パウロはここで「労苦し、苦闘している」といっています。何に苦労し、苦闘しているのか。宣教活動において労苦し、苦闘している。牧会活動において労苦し、苦闘している。イエスさまを宣べ伝えることが、どうして労苦であり苦闘となるのか。イエスさまを信じない多くの人たちが、聞く耳を持たないからか。それもあると思いますが、しかし前節までを読むと、そういう教会の外の人たちに対して労苦し苦闘しているというよりも、教会の中の人たちに対して、つまりすでにイエスさまを信じたと言っている人たちに対して労苦し苦闘している。具体的にはどのような労苦であり苦闘であるのか。「俗悪で愚にもつかない作り話」をする人たち、それを好む人たちがいたのです。俗悪で愚にもつかない、というのですから、どんなにこの世的な人たちだろうかと思いますが、3節に「彼らは結婚することを禁じたり、食物を断つことを命じたりする」とあり、大そう宗教的な人たちです。そういう宗教的、戒律的な人たちに対して労苦し、苦闘している。そのような人たちが俗悪な作り話をする、それは「敬虔」な信仰生活から離れて行ってしまう。不思議なことです。宗教的な、戒律的なことを強調しながら、結果的に「敬虔」から離れて行ってしまう。

昨日もイエスさまを信じることは、イエスさまを愛することである、と説教で語ったのですが、礼拝はイエスさまを愛することが最高潮に高まるときだと思います。敬虔とは神さまを敬い大切にすることですから、礼拝こそ、敬虔がもっとも高まるときだと思います。

週の初めの時、イエスさまを礼拝します。1時間ばかりの間、黙祷をし、賛美、祈り、み言葉のときをもって三位一体の神さまを礼拝します。その時を誰よりも待ち望んでおられるお方がイエスさまです。私たちはそのイエスさまに会いに礼拝に出かけます。

礼拝で最も大切なことは、神さまを礼拝すること、です。当たり前なのですが、本当に当たり前になっているだろうか、と私たちは振り返ることもときに大切だと思います。

私たちが礼拝堂に行き、あるいはさまざまな形をもって、イエスさまを礼拝すること、すなわち、イエスさまと「時を過ごす」ことを、イエスさまが待っていてくださいます。たとえば、大切な人との出会いを想像してみましょう。喫茶店でも、遊園地でもどこでもよいのですが、大切な人が、私たちがそこに行くのを待っていてくださいます。決められた時間は、もう前日から待ち遠しい時間となっています。いそいそを準備をし身なりを整え、忘れ物がないかを再確認し、出かけていきます。決められた時間よりもずいぶん早くに現地に到着してしまいます。大切な人はすでにそこで待っていてくださいました。「お待たせしました」「いえいえまだ待ち合わせの時間にはなっていませんよ」「そうなのですが、もう朝からこの時が待ち遠しくていても立てってもいられませんでした」、そんな会話が為されることでしょう。愛に溢れた会話です。そうしてはじまった1時間ほどのデートは夢のようです。どんな会話がなされたか、どんな活動をしたか、なども大切なことですが、それ以上に、「共に時間を過ごす」ということが、何よりも大切なことです。自分が豊かな時を持つということも大切ですが、相手がどんなに豊かな時間を過ごしてくれるだろうかが中心的なテーマとなります。アイスクリームを食べようとなると、「バニラですか、チョコですか。それともミックスがいいですか」。「あなたと同じがいいです」などと言います。真実の愛がそこにあるならば、自分の願望や欲望は横に置き、ひたすら相手の喜びを求めます。自分が恵まれた、祝福されたなどと考えているいとまはありません。ひたすら、イエスさまの喜びを私の喜びとします。時間は惜しまれつつ過ぎていきます。終わりの時が来ます。「では気を付けて。また会いましょう。神さまの祝福があるように」。言葉が交わされ帰路につきます。礼拝は、このようなイエスさまとの時間なのです。敬虔を育む時間、イエスさまとの愛が温められる時間、夢のような時間なのです。そういう時間としての礼拝を私たちは週の初めに大切に過ごします。敬虔を育みます。イエスさまとの愛を温める時を過ごすのです。デートに行くとき、何がもらえるだろうか、どんな祝福があるだろうか、自分にとってどんな徳があるだろうか、などと考えて行く人はいません。

11 あなたはこれらのことを命じ、また教えなさい。

牧者は、このように「敬虔に生きる人びと」を育てていかなければなりません。

12 あなたは、年が若いからといって、だれにも軽く見られないようにしなさい。むしろ、ことば、態度、愛、信仰、純潔において信者の模範となりなさい。

「だれにも軽く見られないようにしなさい」。難しいことです。今から30年以上前、30歳で赴任した教会には、私なんかよりも敬虔な雰囲気があり、立派な人たちが幾人もおられました。外の人からはだれが牧師かわからないような状態です。しかしそのような人こそ、若い牧師を大切にしてくださいました。今私があるのは、そのような人たちの祈りによります。感謝してもし尽くすことができません。

軽く見られないようにするのは、いたずらに権威を振りかざせということではありません。秩序を大切にすることです。教会にはいろいろな人があつまります。それぞれの人生経験や、思い、願いが渦巻きます。人間はどこまでも罪びとですから、それぞれの思い通りにコントロールし、支配しようとしてしまいます。いろいろな教えに振り回され、教会は戦闘状態になります。

秩序が必要なのです。そして集う人にはその秩序を大切にする心が必要となるのです。牧師が強権的に支配するということではありません。しかし牧師が支配しなければ、結局信徒が、とくに声の大きな信徒が支配する教会となるのです。牧師は仕方なしに、だれにも軽く見られないようにしなければならないのです。またそういう文化を教会で育てなければ、平安のない教会となってしまいます。

13 私が行くまで、聖書の朗読と勧めと教えに専念しなさい。

牧師がすべきことは、聖書の朗読と、その勧めです。それ以外はあればよいかもしれませんが、なくても良いものです。牧師の存在根拠は、聖書の朗読と勧めであって、それ以外はどうでもよいことです。

14 長老たちによる按手を受けたとき、預言によって与えられた、あなたのうちにある賜物を軽んじてはいけません。

賜物、とは、たまわったもの、神さまから与えられたもの、という意味です。それは特殊な体験によって与えられるのか。パウロはそうは考えませんでした。教会の長老、現代に当てはめるとすれば、団体の理事やすでに奉仕している牧師、あるいは役員によって受けた「按手」、そしてそれに伴う預言、すなわちみ言葉、聖書のみ言葉です。それによって賜物が与えられている。すでに、与えられている。それを軽んじてはならない。重大なことなのだ。

15 これらのことに心を砕き、ひたすら励みなさい。そうすれば、あなたの進歩はすべての人に明らかになるでしょう。

召された者として、聖書の朗読と勧めに専心するならば、明らかに進歩する、前進する、成長する。この世にはいろいろなハウツーものがある。キリスト教会でもさまざまなことが伝えられる。目を見張る活動がある、参考にしたい取り組みがある。それも大切でしょう。しかし牧師がすべき第一のことは聖書の朗読と勧めである。つまり説教である。それに専心せよ。そうすれば、必ず成長する。

私は、これは、剣道や言うと「素振り」、柔道で言うと「受け身」。書道で言うと、ひたすら「一」の字を書くようなことではないかと思います。それが、成長の確かな一歩なのです。

私の場合、説教では必ず原文から単語を一つひとつパースし、いくつかの聖書を比較し意味をくみ取り、黙想し、いくつかの説教集を読むということで、準備をしていました。今は原文からのパースはしていないのですが、ただ聖書を手書きし、つまり写経し、何日も思いめぐらし、黙想しています。ウォーキングをしながら、空の雲を眺めながら、イエスさまの御心を尋ねるのです。とても楽しい時です。

16 自分自身にも、教えることにも、よく気をつけなさい。働きをあくまでも続けなさい。そうすれば、自分自身と、あなたの教えを聞く人たちとを、救うことになるのです。

牧師が気をつけなければならないことは、教えること、その内容も大切です。しかしそれ以上に大切なのは、自分自身、です。そうするならば、自分自身と、その教えを聞く人たちを、救うことになる。

救うというと、まだテモテは救われていないのか、と思ってしまいますが、そうではありません。イエスさまを信じた時からテモテも、また私たちも完全に救われています。しかしその救いのすばらしさを味わっているだろうか。救われた者として、新しい生き方ができているだろうか。愛と喜びに生きているだろうか。ともに生きる人びとから、私の姿、歩みの中にイエスさまが「透けて」見えているだろうか。私がどんどん透明になっていき、イエスさまが見えていく。それが救いということです。いつまでも、私、が見えている。私がのさばっている、という信仰生活であれば、確かに救われているのですが、本当に救われていると言えるのだろうか。

自分自身に気を付ける。それが牧師のなさなければならない大切なことです。

「牧者として、会衆のためにすることで何よりも大切なことは、自分自身の魂をケアをすることである。

これは米国のプリンストン神学校の校長兼牧会学教授であるクレッグ・バーンズによる著作からの一文です。」

(太田和功一、『静まりと魂のセルフケア」、あめんどう、2024年、137頁)


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