静まりの時 ヘブル4・14~16〔招きのことば〕
日付:2024年10月11日(金)
14 さて、私たちには、もろもろの天を通られた、神の子イエスという偉大な大祭司がおられるのですから、信仰の告白を堅く保とうではありませんか。
「もろもろの天を通られた」。地上には目に見える試練、私たちを脅かすものがあります。天には、私たちの目に見えない私たちを脅かすものがあります。主イエスさまは、そのような、私たちを脅かす私たちの目に見えないものがうごめいているようなところをも通られました。神でありながらまことの人となってこの地を歩まれたように、天においてもそのすべてを経験してくださったのです。もはやイエスさまが知り得ない場所はどこにもありません。その神の子イエスさまこど、偉大な大祭司である。その偉大な大祭司であるイエスさまがおられる。私とともにおられる。
大祭司であるイエスさまがおられるので私たちは「信仰の告白」を堅く保とうと呼びかけています。この「信仰の告白」は新共同訳では「公に言い表している信仰」と訳されています。信仰告白とは、私が神さまを信じている、ということですが、この聖句の意味することは、すでに信仰の告白というものが成り立っていて、その信仰の告白を私たちも堅く保とう、と言う意味のようです。つまり、あなたは神さまを信じていますか、と問われたときに、私にはこのような体験があり、その体験を通して神さまが確かにおられることを信じました、というようなことではなく、公に言い表される信仰、たとえば、使徒信条において告白されている信仰を、あなたも同意し、それを堅く保ちますか、という意味です。
そもそも神さまを信じた、という人はこの世界にたくさんおられるのです。しかしそれが聖書の語る神であるのか。聖書は、いまだかつて神を見た者はいない、といいます。ただ神のひとり子であるイエス・キリストが神を説き明かしたのである(ヨハネ1章)と語ります。神さまを信じる、ということは、イエスさまに置いて明らかにされた神を信じる、あるいはイエスさまを信じる、ということなのです。ではイエスさまを信じるということはいかなることか。それは十字架と復活のイエス、まことの神にしてまことの人イエスを信じるということです。私の罪は神のいのちをもってしか贖えないほどの深いものであったことを信じることであり、ご自身のいのちを捨ててまでも罪びとである私を救いたいと願われた神を信じる。つまり義と愛の神を信じる、ということです。では、私たち罪びとにその神を信じる力があるのか。天におられる父なる神、その右に座しておられる子なる神。いずれも天におられる神です。それに対して私とともにおられる助け主なる神、聖霊の神が私を信じる者へと導いてくださる。信じたということの中に、すでに聖霊なる神さまの働きがある。聖霊は、単なる力、霊的な何か、ということではなく、人格をお持ちの神ご自身である。こうして三位一体の神を信じる、ということにおいて神を信じるということを、聖書は私たちに語ります。神さまはご自身を三位一体ということにおいて現わそう、私たちを出会おうとされました。この公に告白されている信仰を、私も堅く保つ。それがキリスト教信仰です。
15 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。
「私たちの弱さ」。私たちは弱いのです。私は弱い、ということを受け入れるところに信仰が生まれます。まことの信仰を持つ、ということは、私は弱いということを知ることです。
その弱さに同情してくださる。それがまことの神である。三位一体の神である。
同情と訳されている原文の単語は、苦難や経験をともにする、という意味を持っています。上から下に見てかわいそうに、ということではなく、同じところに立って、その苦しみをともに経験することです。主が私たちの弱さに同情してくださる、ということは、私たちと同じように弱い存在になってくださった、ということです。罪は犯されませんでした。しかし私たちがその弱さゆえに経験するあらゆる試みを経験してくださったのです。
私が今なにか試みを経験しているとすれば、その経験もしてくださった。それがイエスさまです。
16 ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。
神さまからの「あわれみを受け、また恵みをいただいて」、それによって「折にかなった助けを受けるために」「大胆に恵みの御座に近づこう」。折にかなった助けを受ける。そのために大胆に恵みの御座に近づく。恵みの御座に近づくことは自分の力では不可能なので、神さまのあわれみ、神さまの恵みをいただく。それによって可能となる。すべての神さまの働きです。
「恵みの御座」とはいったい何か。神さまがお座りになっておられるところ。そこには恵みがあふれている。その恵みの御座に、私たち罪びとが大胆に近づくことができる。
逆に大胆に近づかない、ということはどのようなことであるのか。遠慮をしているのか。それとも、何らかによって躊躇させているのか。それとも、神さまの恵みの御座以外に、恵みを見いだそうとしているのか。
恵みの御座、といっても、何かそのような座があるのか。他の宗教などでは、ご神体のようなもの、あるいは像のようなものがあって、その具体的な場所があるようですが、キリスト教会の場合は、そのようなものがない。神さまは信じる者とともにいて下さいますから、今こうして祈っているときもそこが恵みの御座と言えるかもしれない。あるいはイエスさまとの心の距離みたいなものがあるとすれば、その距離を詰めて、イエスさまご自身とともにいることを確かにすることで、その場が恵みの御座となる。いろいろと想像しますが、やはり一つ明確なのは、共に賛美し、ともに祈り、ともに聖書の言葉を学ぶ礼拝堂は、そしてその講壇は恵みの御座ではないか、と思います。しかし礼拝堂に来てはいても、心がイエスさまから遠く離れている、ということもあるかもしれませんから、はやり私たちの心の問題も大きくかかわっていることである。今の私は、大胆に恵みの御座に近づいているだろうか。近づこうとしているだろうか。
大胆に、とは自由にという意味でもあります。自由とは、自分勝手にということではありません。自己中心から解放されて、ひたすらイエスさまを中心にして、イエスさまに近づいていく。
近づかなくてはイエスさまをより深く知ることはできません。近づかなくては、イエスさまのより大きな愛を知ることができないのです。