静まりの時 ルカ18・15~19〔招きのことば〕
日付:2024年10月09日(水)
15 さて、イエスに触れていただこうと、人々は幼子たちまで連れて来た。ところが、弟子たちはそれを見て叱った。
16 しかし、イエスは幼子たちを呼び寄せて、こう言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。邪魔してはいけません。神の国はこのような者たちのものなのです。
17 まことに、あなたがたに言います。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。」
人びとはイエスさまに触れていただこうと幼子たちまで連れて来ました。イエスさまに触れていただく。神さまに触れていただく。それが人間の祝福であると信じたのです。
神さまに触れる、というのではありません。神さまに触れていただく。私が神さまに向かって手を差し伸べるのではなく、神さまのほうから私に手を差し伸べて下さり触れてくださる。そこに祝福があると信じたのです。
私が触れるというならば、私の意志で私の手を差し伸べればよいのです。しかし神さまのほうから私に触れていただくためには、私の意志がどうであれ、神さまの意志が動かなければ成り立ちません。神さまは、私に触れてくださる、そうしようと願ってくださるお方である、と信じたのです。神さまは祝福そのもののお方です。私たちは、ただイエスさまのもとに行って、手を触れていただくことを待ち望みます。
ここで「幼子」まで連れて来られた、とあります。他の訳では「乳飲み子」となっています。自分の意志ではイエスさまのところには行けない、行こうとも考えない、そういう存在です。それが「連れて来られる」という方法で、イエスさまのところにやってくる。イエスさまは、そういう存在にも触れて下さる。そう信じたのです。
古代キリスト教会では早くから幼児洗礼が行われるようになりました。生まれた子どもが元気に育っていくことが簡単ではない時代でした。洗礼を、個人的な信仰の決意に基づくものであると考えると、幼子、乳飲み子は、自分では個人的な決心をすることは不可能でしょう。しかしこの聖書の個所から、イエスさまは幼子を祝福してくださると信じ、幼児洗礼を行なうようになった、と言われます。プロテスタント教会では、幼児洗礼を否定することが多いかもしれません。しかし宗教改革の時代からのプロテスタント教会では幼児洗礼は行われています。判断の着かないことではありますが、祝福とは、個人的な決意によって奪い取るものではなく、一方的な神さまのご愛の中に授けられるものであることを大切にしたいと思います。
私たちも幼子のようになって、幼子のように神の国、すなわち神さまのご支配を受け入れる者でありたいと思います。イエスさまのもとにひざまずき、与えようとしてくださる祝福を喜びと感謝をもって受け取りたいと思います。
18 また、ある指導者がイエスに質問した。「良い先生。何をしたら、私は永遠のいのちを受け継ぐことができるでしょうか。」
19 イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを『良い』と言うのですか。良い方は神おひとりのほか、だれもいません。
ある指導者がイエスさまに問いました。その時この指導者はイエスさまに向かって「良い先生」と呼びかけました。
「指導者」。別の訳では「ある議員」。最高法院サンヘドリンの議員であったかも知れません。こののちイエスさまが十字架にかかられるときの裁判の席にも同席したかもしれません。裁判の席では、良い、悪い、が判断されます。議員はそれを判断する一人です。何が「良い」のか、何がそうでないのかを判断する。それに日頃から馴れている人です。その人が、イエスさまに向かって「良い先生」と呼びかけました。
それに対してイエスさまは不思議な答えをなさいます。「なぜ、わたしを『良い』というのか。良い方は神おひとりのほか、だれもいない」。一見、自分は神ではない、と語られたようにも読めます。しかし聖書は、イエスさまが神であることを大前提にして書かれていますので、この個所も、イエスさまがご自分を神ではないなどと言われたのではないことは明らかです。ではどういう意味であるのか。
この指導者は、イエスさまに対して「良い」と判断している。だからその良い先生から教えをいただきたい。そうして永遠のいのちをいただきたい、永遠のいのちへの確信をいただきたいと願いました。しかしそのあとでイエスさまが戒めについて問われたとき、この指導者は、それらをすべて守っていると答えました。もしそうであるならば、その戒めは神さまの言葉なのだから、それを守っているというのならば、それで永遠のいのちへの確信を持てばよいのです。しかし彼は、永遠のいのちへの確信が持てなかった。神さまおひとりが良いお方である、ということがいまだ不明確であったのだと思います。どこまでも自分の判断によって生きているのです。
戒めは守っていると答えた彼に、イエスさまは一つの課題を与えます。持ち物をすべて売り払い貧しい人に施せ、と。これは施しという善行を積め、というのではなく、今までとにかく「得る」という人生を送ってきた彼に「献げる」という人生へ招いておられるのだと思います。財産もそうですが、戒めについても、自分が為す、そうして自分が得る、という人生を送ってきたのです。それに対して、手放す、手から離す、という人生へ招いておられる。
手放す、という人生。良いか悪いかという判断も、神さまの御手のなかに委ねる。神さまが良い、と言われることであればそれは良いことです。そう信じていく。それが神さまを神さまとすることだと思います。
私たちはいろいろなところで、自分の判断力によって生きています。それは当然のことであり、またそうでなければならないことも事実です。しかし私という存在は人間であって、そこで為す判断にはいつも限界があることをわきまえて、神さまご自身が良いお方であることに、すべてをお委ねしていく。幼子のようになって、永遠のいのちは、自分の努力で勝ち取るようなものではなく、神さまの一方的な恵み、愛によって与えられるもの、授けられることを知って、イエスさまのもとにひざまずく、礼拝を献げる者となりたいと思います。