キリストの十字架が空しくならないようにするため

静まりの時 第一コリント1・10~17〔教会の一致〕
日付:2024年10月04日(金)

10 さて、兄弟たち、私たちの主イエス・キリストの名によって、あなたがたにお願いします。どうか皆が語ることを一つにして、仲間割れせず、同じ心、同じ考えで一致してください。

 「語ることを一つに」。信仰の告白において、会衆がその語る言葉を一つにする。礼拝において、賛美、祈り、使徒信条などの信仰告白を、一つの言葉で語る。
 世にはさまざまな宗教があります。信仰には体験がついて来ます。体験は非常に個人的なものですから、それぞれに違いが生まれます。教会でも、証し、というのがあります。多くの場合「信仰の体験」が語られます。証し、ということですから、本来は目に見えない神さまを「証し」することですが、個人が如何に信仰を持つに至ったかという体験が語られると、そこにはいろいろな特色が生まれます。祈りが聞かれた、病がいやされた。罪の縛りから解放された、むなしい人生に意味を見いだした、などなど。それはそれで大切なことだと思います。しかしそれは、いわゆる「特殊な啓示」であって、すべての人にあまねく当てはまることではありません。もしそれを普遍的なこととして、そこから「教理」や「教え」を生み出そうとすれば、10人いれば10通りの信仰が生まれてしまいます。
 それらはあっていいのです。しかしそれをスタンダードとはしない。キリスト教会は、一つの「教理」を持つ宗教なのです。いろいろな信仰のバリエーションがあってもいいのかもしれませんが、では何を信じているのか、どう信じているのか、と問われるならば、一つの信仰告白をする。自分が編み出したものではなく、教えられたもの、伝えられたものを、自分の信仰として告白する。そうして一つのことを語る。それがキリスト教会です。
 教会が仲間割れしない、同じ心、同じ考えで一致している、というのは、ただ仲が好い、とかと言うことではなく、信仰による一致のことです。極端な言い方をするならば、人間的には仲たがいをしている状態であっても、同じ信仰を告白する、ということにおいて、一つとなるのです。逆に、いくら仲が好くても、同じ信仰を告白できていない、とするならば、それは教会がばらばらとなっている、ということなのです。
 ですから一つのことを語るためには、罪びとである私たちは教えられなければなりません。また伝えられたものを大切にしなければなりません。

11 私の兄弟たち。実は、あなたがたの間に争いがあると、クロエの家の者から知らされました。
12 あなたがたはそれぞれ、「私はパウロにつく」「私はアポロに」「私はケファに」「私はキリストに」と言っているとのことです。
13 キリストが分割されたのですか。パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によってバプテスマを受けたのですか。

 コリント教会の中に起こっていた「争い」については、クロエの家の者からパウロに伝えられました。言葉は悪いのですが、いわばクロエの家のものがパウロにチクったのです。
 チクるというと、それ自体に倫理的な問題を感じるかもしれませんが、間違った状態がそこにある、ということを見過ごしにしない、ゆるがせにしない、人ごとにしない、それがクロエの家の者のしたことなのだと思います。
 間違った状況がある。私たちならばそれにどういう風に対応するでしょう。教会は赦しの共同体である、少々のことは大目に見て、許容してゆくべきだ、というのでしょうか。パウロ先生に言ったらそれこそ大ごとになるぞ、そっとしておこう、とするのでしょうか。間違った状況の中にあって苦しんでいる人、悲しんでいる人、不安に思っている人がいることを、ないことのようにするのでしょうか。クロエの家の人たちはそれが出来なかったのだと思います。
 新約聖書27巻中、13通がパウロの手紙、ヤコブ、ペテロ、ヨハネ、ユダによる手紙、ルカの福音書と使徒信条も手紙と言えるかもしれません。そうすると、新約聖書のほとんどが手紙で成り立っていることになります。手紙を書かなければならなかった状況が教会にあった、教会には問題があった、それが手紙を書かせた、そして聖書が生まれた。私たちが今日聖書を読むことができるのは、教会に問題があったからです。もし教会に何の問題もなければ、手紙は書かれることがなく、結果、今日私たちが聖書を読むことにはならなかった。教会の問題が、聖書を生み出した、といっても過言ではない。私たちは感謝しなければなりません。よくぞ問題を起こしてくれた、と初代教会に感謝しなければなりません。問題は、祝福の始まりなのです。

 ここでコリントの教会の争いは具体的な形をとっています。派閥ができていたのです。自分は生粋のユダヤ人から劇的な回心をしたパウロ先生に心酔している、いや私は高学歴で知識の豊富なアポロ先生が大好きだ、私はケファ、すなわちペテロ先生がやはり一番弟子なのだから、ペテロ先生派だ。とそれぞれが言い張り、グループが生まれ、それらが互いに挑み合っている。おおよそ牧師であれば、そのような教会に遣わされたくないものですが、教会には大なり小なり同様の問題が生まれてきますので、伝道者の戦いの一つでもあります。
 おもしろいことに「私はキリストに」つくというグループまで生まれていました。おそらく、パウロに、アポロに、ペテロに、という人たちに対して、それは人間を信奉することではないか、教会はキリストを神さまとして礼拝するところである。だから私たちは、キリストにつく、と主張したのだと思います。一見正しいことを言っているようです。しかしそうして、他の人たちを劣った人たちだ、として自分たちこそ、真のキリスト者だ、というところに、やはり問題があると言わざるを得ません。
 よく自分たちこそ正しい聖書を信じている、というグループからメールなどで案内が来たりします。自分たちこそ、真のキリスト者だ、というのです。しかしそういう自己主張によって分裂を生み出しているとすれば、そこにこそ人間の罪が潜んでいるのではないか。
 使徒信条において「公同の教会を信ず」と告白します。公同とは、公に同じ、と書きますが、言語では「カトリケー」、つまりカトリックという言葉であり、「普遍」とも訳される言葉です。そこに込められているのは、自分たちの教会は、一地方教会である、キリストの教会である、しかし私たちの教会だけが唯一正しい教会というわけではない。世にはたくさんの教会がある、その教会も三位一体の神を信じているならば、同じ一つの言葉を語っているならば、それもキリストの教会である。地上の見える教会にはさまざまな欠けがある、しかしそこに主が「わたしのからだ」と言い切ってくださった教会がある。その教会の一つとして自分たちの教会もある、また世界の教会もある、との告白です。「公同の教会を信ず」。これは言葉を変えるならば、自分たちの教会こそ真実の教会だ、という独善的自己主張から解放される告白なのです。私たちは使徒信条を告白するごとに、「私はキリストに」つく、ということの中に潜んでいる罪から解放されるのです。

14 私は神に感謝しています。私はクリスポとガイオのほか、あなたがたのだれにもバプテスマを授けませんでした。
15 ですから、あなたがたが私の名によってバプテスマを受けたとは、だれも言えないのです。
16 もっとも、ステファナの家の者たちにもバプテスマを授けましたが、そのほかにはだれにも授けた覚えはありません。

 「クリスポとガイオのほか」だれにもバプテスマを授けていない、と言った直ぐ後にああそういえば「ステファナの家の者たちにもバプテスマを授け」た、と言っているので、この辺はパウロの面白いところです。勢いあまっているという感じでしょうか。必死さがある、ともいえると思います。

17 キリストが私を遣わされたのは、バプテスマを授けるためではなく、福音を、ことばの知恵によらずに宣べ伝えるためでした。これはキリストの十字架が空しくならないようにするためです。

 ここで「バプテスマを授けるためではない」という言葉は、独り歩きしてしまう言葉だと思います。バプテスマなど単なる儀式なのだ、それよりも福音を語ることこそ大切な、などと言うことをパウロは言っているのではありません。
 「福音を、ことばの知恵によらずに宣べ伝える」。パウロ、アポロ、ペテロのすぐれた知恵や経験など人間的な知恵によって宣べ伝えるのではない。そういう人間的な何かを強化するための道具としてバプテスマがあるのではない。そういう派閥を生み出す道具として、教会はバプテスマを授けているのではない。もしそういうようなことになっているならば、自分は多くの人にバプテスマを授けることをしなかったので、良かった。というような意味だと思います。
 伝道者にとって、多くの人にバプテスマを授けることは、それ自体喜びです。嬉しいことです。また感謝なことです。しかしそれは、間違っても自分の誉れとすることではない。また何々先生から洗礼を受けた、と喜んでいる信徒のその何々先生が自分であることをひそかな喜びとしてるとすれば、そこに罪があることを見失ってはならない。もし見失ってしまうようなことであれば、もはやキリストを宣べ伝えているのではないことになる。
 そしてそれは、なによりも、「十字架を空しく」してしまうことです。
 十字架を空しくしてしまう。十字架が空っぽになる。十字架の力がなくなってしまう。十字架の力とは、神さまの義と愛、であり和解と赦しです。それらがなくなってしまう。交わりが破壊されてしまう。もはや教会とは呼べなくなってしまう。
 教会に生まれる派閥の問題は、信仰の問題なのです。

 今日は久しぶりに定期の診察日ですが、今日は、アイソトープ検査というなにやらおもしろそうな検査をやってもらえるようで、今からわくわくしています。


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