静まりの時 ピリピ2・1~5〔教会の一致〕
日付:2024年10月01日(火)
1 ですから、キリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、
2 あなたがたは同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、思いを一つにして、私の喜びを満たしてください。
「同じ思い」「同じ愛の心」「心を合わせる」「思いを一つにする」。一つの集団が、麗しい交わりの中にあることは、それだけで心の和むことです。家族がギクシャクしている、兄弟が疎遠である、クラスの雰囲気が悪い、職場がばらばらである、というのは辛いことです。教会はどうであるのか。教会こそ、麗しい交わりのところであり、いるだけで安心できるところであってほしい。だれもがそう願うのではないかと思います。
パウロとテモテ(1・1)は、この喜びの手紙と言われるピリピ書において、一つになってほしいとの願いを語りました。それはピリピ教会に、そういわれなければならないような状態があったことを想像させます。
「キリストにあって励まし」「愛の慰め」「御霊の交わり」。二番目の愛の慰めは何よりも父なる神さまの慰めであると言われます。そうすると、ここに子なる神、父なる神、聖霊、と三位一体の神さまが記されていることになります。その三位一体の神さまによる「愛情とあわれみ」。人間的な愛情やあわれみではなく、三位一体の神さまにある愛情とあわれみがあるならば、一つになって麗しい交わりの中に生きようと、パウロたちは願ったのです。
1節は共同訳では「そこで、あなたがたに幾らかでも・・・」とあります。三位一体の神さまの愛とあわれみが「幾らかでも」あるならば、というのです。ほんの少しでもそれらが残っているならば、一つになって生きることは可能である、ということでしょう。
ピリピ教会が一つになることによって、教会自身の喜びが確かなものになると思いますが、それとともに「私の喜びを満たしてください」とパウロは語ります。教会が一つとなり喜びに満ちたところなることが、パウロにとっての喜びでもある。一つの地方教会が一つとなって麗しい交わりの中にある前進することが、誰かの喜びを生み出す。あるいは他の教会、キリスト教界、さらには社会の喜びを生み出す。
そのように一つとなるためには一体何が必要であるのか。パウロは語ります。
3 何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。
「利己的な思いや虚栄」から行動してしまう。行動だけではありません。語るということも、利己的な思いや虚栄から語られる。利己的な思いとは、自己中心、党派心、野心などという意味です。自分の価値を確かめたいがための言動。自分が如何に大切な存在であるのかをアッピールするための言動。別の言葉で言えば、愛されたい、という叫びからの言動。そういう言動は、一致どころが分裂を生み出します。「虚栄」とは、うわべを飾って、自分を実際よりも良く見せようとすること。そういうことも分裂を生み出してしまう。平安や喜びといったものとは、逆の共同体を生み出してしまう。
利己的な思いや虚栄をすてて、「へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者」と「思いなさい」、と語ります。「自分よりもすぐれた者」という言葉は、上に立つ、とか、主権、という意味をもっているそうです。とかく自分を上に立たせようとするのが罪びとである私たちのあり方なのだと思います。そうせざるを得ないのは、自分自身が愛に飢え渇いているからだと思います。神さまにしか満たすことのできないところを、別のもので埋め合わせようとしているのです。本当に愛に満たされている者にだけ可能なことなのだと思います。
「思いなさい」とありますので、必ずしも他者を自分よりもすぐれた者であると客観的な評価をする必要はないと思います。人間はさまざまな弱さを持っています。しかしその上で、他者を大切にするということなのだと思います。
4 それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。
おそらくほかの人のことを顧みていなかったわけではないと思います。しかしほかの人を顧みているつもりであっても、真実には顧みることになっていなかったのだと思います。顧みるという言葉は、注意を払う、とも訳される言葉です。注意を払うというと、なにか監視するみたいな印象をうけますが、そうではないと思います。批判的な思い、あるいはあらさがしのように他者に目を向けても、それは顧みることではありません。その人を、自分よりもすぐれた者として見る。注視する、それが顧みることなのだと思います。三位一体の神さまの愛とあわれみの視線をもって他者を注視することです。
それは、イエスさまご自身が私たちに向けて下さったまなざし、思いでした。
5 キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。
キリストのようになる、ということは、どういうことであるのか。神のようになって人びとを支配することではありません。愛とあわれみの心をもって、共に生きる人たちをとらえ直していく。
へりくだり、謙遜。教会が安心して集えるところであるための鍵です。しかしそれは、教会が安心して集えるところであるための道具というわけではありません。
へりくだる、謙遜をもって生きる。それは自分らしく、ありがままで生きることです。逆の生き方は、木登りで言うと、高く上る生き方なのだと思います。高く上れば上るほど、木は不安定になり、そこにいる自分自身が揺れ動くことになります。平安はありません。しかしへりくだる、謙遜をもって生きるならば、揺れ動かされることはありません。どっしりと大地に足をつけて、安心して生きる者とされるのです。
教会が一致するためには、そこに集う一人ひとりの不断の努力が必要である。そう聖書は語るのだと思います。一人ひとりがまるでお客さんのように教会に集うだけであるならば、いつまで経ってもそこに一致は生まれません。
「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。」(マタイ5・9)
平和というのは、一人ひとりが「つくる」ものなのです。