静まりの時 詩篇133・1~3〔教会の一致〕
日付:2024年09月30日(月)
都上りの歌。ダビデによる。
1 見よ。なんという幸せ なんという楽しさだろう。
兄弟たちが一つになって ともに生きることは。
2 それは 頭に注がれた貴い油のようだ。
それは ひげに アロンのひげに流れて
衣の端にまで流れ滴る。
3 それはまた ヘルモンから
シオンの山々に降りる露のようだ。
主がそこに
とこしえのいのちの祝福を命じられたからである。
「兄弟たち」。男性だけということではないと思いますので、女性も含めた同胞たちがともに生きることは、なんという幸せ、なんという楽しさだろう、と歌います。共同訳では「麗しい」という言葉も使われています。
一つになってともに生きること。新共同訳では「共に座っている」こと。共同訳では「住むこと」。それは素晴らしいことです。
しかし、一つになって共に住む、ということで、また問題も起こります。教会において、交わりは大切です。しかしその交わりにおいてまた問題も起こります。イエスさまは大好きなのだけれども、交わりが苦手、という人もいるかもしれません。信仰につまずくということ、よりも、交わりにつまずいたという言葉は聞こえてこないわけではありません。
交わりにつまずいた、ということをよく聞いてい見ると、自分が大切にされなかった、自分が期待したような扱いがされなかった、ということである場合もないわけではありません。結局人間はどこまでも自己中心です。
しかし、もともと罪人である人間の集まりなのですから、そこでつまずきが起らないほうがおかしいのかもしれません。罪が赦されたという信仰共同体は、ややもすると、在るがままの自分が無条件で許容されることを容認する集団となります。自分らしく、という言葉は一見良い言葉のようですが、それはつまり罪びとである自分が最大限に発揮されることになりかねません。そのような集団において、つまずき、が起るほうが自然なことではないか。
罪びとである集団の中には、麗しいものを生み出す力がないとすれば、それでも、兄弟姉妹たちが一緒に住むことは麗しいことなのだ、というのは、その集団の外側からの何らかの力が必要です。
3節はそのヒントを与えてくれます。
「主がそこに とこしえのいのちの祝福を命じられたからである。」(新改訳2017)
「シオンで、主は布告された 祝福と、とこしえの命を。」(新共同訳)
「主はそこで祝福ととこしえに及ぶ命を定められた。」(共同訳2018)
主が命じられた。主が布告された。主が定められた。交わりの祝福は、主のご支配の中にある、ということがあって成立することです。
交わりの祝福の土台は、そのに集う兄弟姉妹が、イエスさまを主としている、ということにあります。人間的なもののみを土台としていたり、人自身を土台としているならば、その交わりは簡単に破壊されてしまいます。
聖餐式のテーブル、聖餐卓は「コミュニオンテーブル」と呼ばれます。コミュニオン、すなわち交わりの机。聖餐式において司式者は式辞で次のように語ります。
「この聖餐にあずかるとき、キリストは、私たちのうちに親しく臨んでおられます。またこの聖餐は、私たちが、主の愛のうちに一つであることをあらわすものです。」
また祈りでは
「私たちが、キリストにあって一つであり、互いに主にある家族であることを覚えて、この交わりをいよいよ厚くし、共に福音のあかしに生きる者としてください」と祈ります。
聖餐の交わりは、誰もが参加できる愛餐の交わりとは別物です。聖餐は、イエスさまを主とすることを公にした者たちだけがあずかることのできるものです。それに対して愛餐はだれもが参加できるものです。それぞれにおける「交わり」の意味には違いがあります。
少し長いのですが、聖餐が交わりであることを、そしてその交わりとはいかなるものであるのかを学ぶことのできるリュティの文章を引用します。
「わたくしは今度の日曜日には、主の食卓に行こうと、決心していました。しかし日曜日の朝になると、心の準備ができていないことを感じましたので、自分に向かってこう言いきかせました。『あなたは今日聖餐にあずかることはできない、否、そんなことは絶対に許されない』と。ところが説教の中で、罪とがを負っていても、心から、キリストがそれらを取り去って下さるように、祈りさえすれば、主の食卓に近づくことができる、という大いなることばを聞いたとき、わたしくの心の中から二つの声が聞え出しました。一つの声は、『ここにとどまって、聖餐を受けなさい』と言って、わたしくし励ましますが、ほかの一つの声は、『この場から出て行け』とわたしくにささやきます。第二の声がほとんど勝ったように思われました。と言うのは、祝祷がなされると、わたくしは出口の方に向かって歩き出したからです。だが、その時再び最初の声がわたしくを戒めて申しました。『ここにどどまって、主の食卓に行け』と。わたくしはもう一度座席につかざるを得ませんでした。
しかし、わたくしが聖餐をいただいたときに味わった経験は、人間のわざではなく、神のわざでした。そしてわたしくは今、自分をここにとどまるように招いたのは神の声であったことを、知りました。わたくしたちの教会には、ずっと以前同じ職場で働いていたひとりの婦人がいました。その当時彼女はまだ独身でした。わたくしたちは仕事のことで仲違いになりました。交際を断って、2,3年の間、わたくしたちは滅多に顔を合わせませんでした。ところがこの教会ができてから、わたくしたちはしばしば説教や聖書研究会で顔を合わせました。しかし正直に申しますと、そんな所でこの人と出会うことは、いつもわたくしにとって苦痛でした。こう申したからと言っても、わたくしは彼女に対して憎しみや恨みの気持を抱いていたわけではありません。しかしわたくしは不和であることに苦しんでいましたし、わたくしたちはできれば互に避けたいと願っていました。先週の日曜日にこの婦人も聖餐の食卓にあずかりました。しかし会堂を出るや否や、彼女はわたくしの所にきて、握手をして、こう言いました。『Xさん、お互いに過去のことは忘れて、ゆるし合おうではありませんか』と。わたくしのこの喜びは到底筆舌に尽くせません。帰路わたくしは神に感謝をささげました」。
(『説教・告解・聖餐』、赤木善光訳、新教出版社、1960年、142頁f)
イエスさまが主となってくださった者たちの交わりだからこその奇跡です。なんという幸せ、なんという楽しさでしょう。兄弟姉妹たちが一つになって、ともに生きることは。