神の愛のうちに自分自身を保ち

静まりの時 ユダ17~20〔永遠の思い〕
日付:2024年09月12日(木)

17 愛する者たち。あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの使徒たちが前もって語ったことばを思い起こしなさい。

 使徒たちとは、12弟子のことです。イスカリオテのユダが欠けたことにより11人となった弟子たちは、補充選挙をして12人を保ちました。その彼らを使徒といいます。その使徒たちが語ったことばとは何か。さまざまな言葉が伝えられていたことも想像できますが、なによりも新約聖書のことだと思います。
 使徒たちが語ったことばを思い起こす。聖書を学び、思いめぐらす。心にとめる。キリスト教信仰の基本です。
 では彼らはいったい何を語ったのか。

18 彼らはあなたがたにこう言いました。「終わりの時には、嘲る者たちが現れて、自分の不敬虔な欲望のままにふるまう。」
19 この人たちは、分裂を引き起こす、生まれつきのままの人間で、御霊を持っていません。

 まず、異端的な信仰者が現われる、と彼らは語りました。そのことを忘れてはならない、とユダは語ります。
 異端的な信仰者をユダは、「嘲る者たち」「自分の不敬虔な欲望のままにふるまう」と説明します。そしてそのような人たちが、「分裂を引き起こす」。なぜならは、彼らは生まれつきの人間、すなわちキリストに出会っていない、回心していない人間である、と。それをユダは「御霊をもっていない」人間である、といいました。
 御霊を持っていない人間。その特徴は、嘲る、自分の不敬虔な欲望のままにふるまう、分裂を引き起こす。すなわち交わりを破壊することが、その特徴である、といいます。
 御霊を持っていない、というと、何やら霊的な能力に欠けているような想像をしがちですが、聖書は、交わりを破壊するものこそ、聖霊を持っていない者の証拠である、と語るのです。使徒信条で告白する通りです。

20 しかし、愛する者たち。あなたがたは自分たちの最も聖なる信仰の上に、自分自身を築き上げなさい。聖霊によって祈りなさい。

 「自分たちの最も聖なる信仰」。信仰にもいろいろあって、そのうちの最も聖なる信仰。「聖」というのは、神さまのものとされている、という意味ですから、聖なる信仰とは、人間の手垢がついていない信仰のことです。たとえば人間の行いによって、祝福が左右されるというのは、人間の手垢がついている信仰です。それに対して、人間の思いを超えている信仰。私たちの行いに関わらず、私たちを愛し祝福しようとしておられる神さまへのひたむきな信仰。聖なる信仰とはそういう信仰のことだと思います。
 そのような信仰のうえに自分自身を築き上げる。自分の人生を築き上げる。
 「聖霊によって祈る」。自らの力によって祈るのでも、特別な言葉で祈るのでもなく、一方的な神さまの愛と恵みによって祈る。

21 神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠のいのちに導く、私たちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。

 神さまの愛のうちに自分自身を保つ。自分自身の保管場所は、神さまの愛のうちにある。神さまの愛のうちに、自分を置く。そうして自分自身を守る。保つ。
 「永遠のいのちに導く、私たちの主イエス・キリストのあわれみ」を待ち望む。共同訳では「永遠の命を目指して、私たちの主イエス・キリストの憐れみを待ち望む」。
 イエスさまを信じたその時から、永遠の命の約束をいただきました。そのようなあわれみをいただきました。永遠のいのちは、信じたときに「すでに」いただいています。しかし同時に「いまだ」いただいていないものでもあります。やがてのときに永遠の命に生きる者としていただきます。主にある者は、「すでに」と「いまだ」の緊張関係の中にあって待ち望む者です。

 待ち望む。ただ待つのではなく、待ち望む。希望をもって、いまかいまかと待ち望む。ただ待っているならば、その待ち時間は無益な時間と思えるかもしれません。しかし待ち望む者は、その待ち時間をも、神さまの御手の中にあることを信じています。無益な時間ではなく、神さまと共に過ごす大切な時間となります。


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