静まりの時 マタイ19・26~30〔永遠の思い〕
日付:2024年09月11日(水)
26 イエスは彼らをじっと見つめて言われた。「それは人にはできないことですが、神にはどんなことでもできます。」
このイエスさまの御言葉は、16節から始まる一人の人との対話の結論として語られました。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをすればよいか、との問いに、戒めを守りなさい、とイエスさまは答えられました。それに対して、私はそれらすべてを守ってきた、とこの人は答えました。しかし重ねて、何がまだ欠けているのかと問うたのです。つまり、幼いころから教えられるままに戒めを守ってきた、しかし自分の内には、永遠のいのちの確信がない、これ以上何をすればよいのだろうか、と切なる飢え渇きをもってこの人はイエスさまのところに来たのです。
イエスさまはこの人(20節では青年となっています)に向かって言われました。完全になりたいのなら、財産を売り払い、貧しい人たちん与えよ、そうしてわたしに従ってきなさい、と。
一見、施しをせよ、と言われているようにも読めますが、そうではないと思います。この青年は、戒めをことごとく守ろうと頑張ってきたのです。それに対して、手放しなさい、と言われたのだと思います。何かを「得る」という生き方から、「手放す」という生き方への方向変換です。青年は、このことばを聞くと悲しみながら帰っていきました。それは多くの財産を持っていたからでした。小さなものを手放すことはあんがい簡単かもしれません。しかし、大きなものを手放すことは難しいことです。
そこで弟子たちに言われたのが、金持ちが天の御国に入ることは難しい、ラクダが針の穴を通るほうが易しい、との言葉でした。
これを聞くと弟子たちはたいへん驚いたと言います。金持ちが天国に入れない、ということがどうしてこんなに弟子たちを驚かせたのか。おそらく、金持ち、ということが、それだけで神さまの祝福があると理解されていたのでしょう。
これを聞いて、ではいったい誰が救われることができるのか、と弟子たちはイエスさまに問いました。イエスさまは、人にはできないが、神には何でもできる、と応えてくださいました。
ここまででまとめてみると、天国に入るのは、人間業ではなく神さまの御業である、人間の行ないによるのではない。神さまが働ていくださるように、人間のわざをストップしなければならない。どれだけ戒律を守っているか、とか、どれだけ奉仕をしているか、ということは、結局のところ自分が中心の生き方である。そこには天の御国、神さまのご支配が入り込む隙間がない。むしろそのように自分を太らせるような生き方は、天の御国から遠く離れてしまう生き方である。天の御国に入るためには、「得る」生き方ではなく、「手放す」生き方へのシフトチェンジが必要なのだ、と言うことでしょう。
そこで弟子の一人ペテロがイエスさまに言った言葉が次の通りです。
27 そのとき、ペテロはイエスに言った。「ご覧ください。私たちはすべてを捨てて、あなたに従って来ました。それで、私たちは何をいただけるでしょうか。」
イエスさまの言われたことをペテロは全く理解していないようです。しかしそんなペテロに対して、イエスさまは咎めることなく次のように答えてくださいました。
28 そこでイエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに言います。人の子がその栄光の座に着くとき、その新しい世界で、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族を治めます。
29 また、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子ども、畑を捨てた者はみな、その百倍を受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。
30 しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になります。
なんとお優しい言葉でしょう。ここには、得ることではなく手放すことによって天の御国に入る者とされる、ということが、さらにかみ砕いて語られていると読むべきでしょう。もちろん天の御国に入るために、家族を捨てよ、などと言われているのではまったくありません。その百倍を受ける、と言われたのですから、家族は大切なものなのです。
イエスさまは、さまざまな事情の中でたとえ手放すことになったとしても、むなしく消えてしまうことはない、と言われたのだと思います。見返りを求めて一所懸命になにかをなす、という生き方から解放してくださり、神さまの御手の中にすべてをお委ねする生き方へ。自分ですべてをコントロールする生き方から、神さまの御業に期待する生き方へ。強い者が先になり弱い者が後になる弱肉強食のような生き方、ではなく、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になるような、ただひたすら神さまの御手の中にある生き方へ。そう招いてくださったのだと思います。
26 空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか。
27 あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。
28 なぜ着る物のことで心配するのですか。野の花がどうして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。
29 しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした。
30 今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。信仰の薄い人たちよ。
31 ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。
(マタイ6・26~31)