静まりの時 ヨブ9・1~12〔真の知恵〕
日付:2024年09月06日(金)
1 ヨブは答えた。
2 そのとおりであることを、
私は確かに知っている。
しかし、人はどのようにして、
神の前に正しくあり得るのか。
3 たとえ、神と言い争いたいと思っても、
千に一つも答えられないだろう。
4 神は心に知恵のある方、
力の強い方。
この神に対して頑なになって、
だれが、そのままですむだろうか。5 神は山々を移されるが、山々は気づかない。
神は怒って、それらをくつがえされる。
6 神が地をその基で震わせられると、
その柱は揺れ動く。
7 太陽にお命じになると、それは昇らず、
星もまた封じ込められる。
8 神はただひとりで天を延べ広げ、
海の大波を踏みつけられる。
9 神は牡牛座、オリオン座、すばる、
それに南の天の間を造られた。
10 大いなることをなさって測り知れず、
その奇しいみわざは数えきれない。11 神がそばを通り過ぎても、私には見えない。
進んで行っても、気づかない。
12 ああ、神が奪い取ろうとされるとき、
だれがそれを引き止められるだろうか。
だれが神に向かって、
「何をするのか」と言えるだろうか。
ヨブは、神さまが圧倒的に力の強い方であると告白します。
私たちが信じている神さまが本当の神さまであるならば、私という人間よりも優れているはずです。力が強いはずです。知恵もはるかに豊かであるはずです。私が「知る」ということと、神さまが「知る」ということを比較するならば、神さまのほうがはるかに大きいはずです。
その神さまを、私という人間が「知る」ということ。いったい何を知ることになるのか。それは、神さまが私を知ることのできる存在であること、を知ることになります。そしてすでに私を知っておられたお方であること、を知ることになるはずです。もしそうでなければ、その神には限界があることになります。限界がある神はもはや神ではありません。偶像です。
その神が、私たちに御自身を知られようとして、「ことば」となって地に降ってきてくださった。私たちに知られてくださった。それ自体神さまの業(わざ)であり奇跡であり恵みであることを私たちは知るのです。信仰を持った、ということ自体が、神さまの業、奇跡、恵みなのです。ですから、まことの神さまへの信仰である限り、それは変化したり失われたりすることがないはずです。にもかかわらず、もし信仰を失った、ということがあるとすれば、そもそも本当の神さまを信じていたのだろうか、と自らを振り返ってみなければなりません。イエスさまとは口では言うものの、案外、自分好みの、つまり偶像を信じていただけかもしれません。偶像であるならば、さっさとそのような迷信は捨ててしまったほうがいいのですから、信仰を失った、ということが起るとすればそれは大きなチャンスです。そこで本当に信じるべき神さま、まことの神さまに出会い直す好機かもしれません。
今日も、私たちよりも大いなるお方が私とともにいてくださることに心安んじて一日を過ごしたいと思います。