そのとき、あなたは主を恐れることをわきまえ知り、 神を知ることを見出すようになる

静まりの時 箴言2・1~8〔真の知恵〕
日付:2024年09月02日(月)

1 わが子よ。もしあなたが私のことばを受け入れ、
 私の命令をあなたのうちに蓄え、
2 あなたの耳を知恵に傾け、
 心を英知に向けるなら、
3 もしあなたが悟りに呼びかけ、
 英知に向かって声をあげ、
4 銀のように、これを探し、
 隠された宝のように探り出すなら、
5 そのとき、あなたは主を恐れることをわきまえ知り、
 神を知ることを見出すようになる。
6 主が知恵を与え、
 御口から知識と英知が出るからだ。

 「私のことば」、すなわちこの箴言を書いた人の言葉。これを書いたのは、1章1節をみると「イスラエルの王、ダビデの子ソロモンの箴言」とありますので、ソロモン王のことです。ソロモン王が「わが子よ」と呼びかけています。文字通りソロモンの子どもとも理解できますが、イスラエルの民、その子々孫々、そしていま主にあって生きるすべての者、さらには人類全体に向かって語られていると理解してもよいと思います。
 このソロモンの言葉を「受け入れ」、その命令をうちに「蓄え」、耳を知恵に「傾け」、心を英知に「向ける」なら、「そのとき、あなたは主を恐れることをわきまえ知り、神を知ることを見出すようになる」。
 また悟りに「呼びかけ」、英知に向かって「声をあげ」、銀のようにこれを「探し」、隠された宝のように「探り出す」なら、「そのとき、あなたは主を恐れることをわきまえ知り、神を知ることを見出すようになる」。
 ソロモンはいくら王といえども人間でしかありません。その人間の言葉に耳を傾けるということ。しかしそこに神さまの言葉が語られていると信じる。そうして聞き、受け入れようとする。聞く、ということにすでに信仰が問われています。礼拝説教もそうです。語る牧師は人間でしかありません。しかしそこで聖書の解き明かしが行なわれる。それを神の言葉と信じる。そこにも信仰が問われていることになります。
 私たちが、受け入れ、蓄え、耳を傾け、心を向ける、また呼びかけ、声を上げ、宝のように探し探り出すなら、「そのとき、あなたは主を恐れることをわきまえ知り、神を知ることを見出すようになる」。

 求めることをせずには、得ることができないのです。水辺に馬を連れていくことができたとしても、馬に水を飲ませるには馬自身が飲もうとしない限りできないように、私たちが求めることをしないでは、得ることができない。それが神さまの言葉、神さまの命令、知恵、英知、悟り、なのです。
 しかし、求めるならば、必ず与えられます。なぜなら「主が知恵を与え、御口から知識と英知が出るから」です。主は、私たちに知恵、英知を与えたいと待ち望んでいてくださいます。主は強制的には与えようとなさいません。私たちを尊重なさいます。私たちが求めようとするまで待っていてくださるのです。なぜなら神さまは愛だからです。

 主が与えて下さる知恵、英知とはいったいなんであるのか。
「そのとき、あなたは主を恐れることをわきまえ知り、神を知ることを見出すようになる」。主が与えて下さる知恵、英知とは「主を恐れる(畏れる)ことをわきまえ知る」こと、そのものです。主を畏れること、主のまえにへりくだること、謙遜になること。それ自体主が与えて下さる知恵、英知なのです。謙遜になることによって、さまざまな知恵が与えられるというのではありません。知恵、イコール、謙遜、なのです。膨大な知識を得たとしても、謙遜でないならば何ひとつ得たことにはなりません。神学校に行ってさまざまな訓練をいただいたとしても謙遜を学ばない限りに何ひとつ学んだことにはならないのです。礼拝において聖書を学びますが、それも謙遜を学ぶことです。週日の集会が始まります。その目標も究極的には謙遜を学ぶことなのです。

7 主は正直な人のために、すぐれた知性を蓄え、
 誠実に歩む人たちの盾となり、
8 公正の道筋を保ち、
 主にある敬虔な人たちの道を守られる。

 「正直」「誠実」「公正」「敬虔」。そのように歩む人のところに、主は知性(共同訳では「良い考え」)を与えて下さいます。またそのように歩む人を守ってくださいます。
 正直、誠実、公正は、この社会にあっての生き方です。所属する共同体に対して正直である、誠実である、公正である、ということです。しかしそれは、敬虔によって支えられています。敬虔、すなわち神さまに対する畏れを抱いている、ということがあって成り立つもの、それが正直、誠実、公正なのだと思います。もし神さまなしに、正直、誠実、公正に生きようとしても、時に人の顔色をうかがうことになってしまったり、自分勝手な主張をするだけになってしまったりと、本来とは違ったものになってしまうのではないか。

 主に向かって謙遜であり、主に向かって誠実である。それさえあれば大丈夫、ということなのだと思います。


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