静まりの時 ルカ6・25~35〔恵みに強められる〕
日付:2024年08月30日(金)
25 今満腹しているあなたがたは哀れです。
あなたがたは飢えるようになるからです。
今笑っているあなたがたは哀れです。
あなたがたは泣き悲しむようになるからです。
26 人々がみな、あなたがたをほめるとき、あなたがたは哀れです。彼らの先祖たちも、偽預言者たちに同じことをしたのです。
マタイの福音書5章には「山上の説教」と呼ばれるところがあります。なぜ山上というのかというと、山に登って弟子たちに語られた言葉だからです。それに対して今朝の個所は、「それからイエスは彼らとともに山を下り、平らなところにお立ちになった」(17)という言葉から、平地に立って語られたことから、「平地の説教」「平野の説教」などと言われるのではないかと思います。
マタイと同じように「幸いについて」(20)語られますが、ルカはそれに加えて「わざわい」「不幸」「哀れ」も語られます。
27 しかし、これを聞いているあなたがたに、わたしは言います。あなたがたの敵を愛しなさい。あなたがたを憎む者たちに善を行いなさい。
・・・
35 しかし、あなたがたは自分の敵を愛しなさい。彼らに良くしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いは多く、あなたがたは、いと高き方の子どもになります。いと高き方は、恩知らずな者にも悪人にもあわれみ深いからです。
敵を愛しなさい、という言葉がいずれも「しかし」という言葉で語られています。
「しかし」というのは、それまで語られてきたことに対して反対の意味の言葉を語ることです。27節の前に語られてきたことというのは、幸いと哀れ(不幸、災い)についてでした。何が幸いであり、何が不幸であるのか、が語られ、それに続いて「しかし」と語られるのです。また35節のほうも、その前節というよりも、この幸いと不幸についての言葉を受けて、しかし、と言っているように思います。
そうすると、幸いの道も不幸の道も様々にある、しかし、これを聞いているあなたがたは、とにかくひたすら敵を愛しなさい、ということになります。
イエスさまは、幸いの道、不幸の道を語られたのですが、一番言いたかったことは、ここでは、敵を愛せ、ということなのだと思います。
自分が幸いになるか、それとも不幸になるか、それはそれで大切なことである。しかしいずれであっても、とにかくキリストの言葉を聞き、それに生きようとしている者は、どのような場面であっても、愛に生きよ、と言われるのです。
「そうすれば、あなたがたの受ける報いは多く、あなたがたは、いと高き方の子どもになります」と続きます。ここに大いなる「ご利益(りやく)」がかかれていると思います。
ご利益を求めての信仰は、ご利益信仰として退けられるのかもしれませんが、そうであれば、それは単なる哲学や道徳と同じです。聖書の語る信仰は大胆に利益を語ります。「報いは大きい」「いと高き神の子どもになる」。なんと幸いなことでしょう。
ただしこの中身については具体的に記されていません。何が神さまからの報いであるのか。神の子どもと呼ばれるとは具体的にどのような状態になることなのか、が明確ではありません。きっとそれはそれぞれに違いがあるからかもしれません。経済的に潤うことを神さまからの報いであると思うときもあるでしょう。健康が与えられること、人間関係の祝福などなど、人生における様々な場面で報いの中身には違いがあります。しかしいずれにせよ、敵を愛する、という生き方さえしていれば、神さまの報いから漏れることはなく、神の子どもとして生きることができると、そう約束してくださったのです。
何が幸いの道か、不幸の道かということの知識も大切ですが、とにかく、その場その場で敵を愛する道を選択することが、神さまのみこころなのだと思います。
なぜなら、神さまご自身がそのようなお方だからです。「いと高き方は、恩知らずな者にも悪人にもあわれみ深いからです」。