この人に神のわざが現れるためです。

静まりの時 ヨハネ9・1~12〔いやしの力〕
日付:2024年08月24日(土)

1 さて、イエスは通りすがりに、生まれたときから目の見えない人をご覧になった。

 このいやしの出来事の始まりは、弟子たちの問いにあるのではなく、イエスさまが「ご覧になった」ことが始まりである、と聖書は語ります。神さまはすべてにおいていつも主です。

2 弟子たちはイエスに尋ねた。「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」

 人間はいつも原因を問います。特に、不幸、と見えるものについてその原因を追究したくなります。罪を犯したから罰(ばち)があたった。原因とそれに伴う結果。その原因を本人だけではなく両親、ときに先祖にまで求めていきます。

3 イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。

 主イエスは、そうではない、とはっきりと語ってくださいました。ここにキリスト教信仰のあり方が明らかにされています。すべては神さまのわざが現れるためである。自分の目には不幸と見えることも、神さまのわざがそこに現れる、それが目的である、と。
 原因を追究したくなる。それは過去に目を向けることですが、目的を信じる。それは将来に目を向けること。しかも希望をもって、期待をもって目を向けることです。信仰が問われている。

4 わたしたちは、わたしを遣わされた方のわざを、昼のうちに行わなければなりません。だれも働くことができない夜が来ます。
5 わたしが世にいる間は、わたしが世の光です。」
6 イエスはこう言ってから、地面に唾をして、その唾で泥を作られた。そして、その泥を彼の目に塗って、
7 「行って、シロアム(訳すと、遣わされた者)の池で洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗った。すると、見えるようになり、帰って行った。

 主はご自身がまことに世の光であることを明らかにしてくださいました。

8 近所の人たちや、彼が物乞いであったのを前に見ていた人たちが言った。「これは座って物乞いをしていた人ではないか。」
9 ある者たちは、「そうだ」と言い、ほかの者たちは「違う。似ているだけだ」と言った。当人は、「私がその人です」と言った。
10 そこで、彼らは言った。「では、おまえの目はどのようにして開いたのか。」
11 彼は答えた。「イエスという方が泥を作って、私の目に塗り、『シロアムの池に行って洗いなさい』と言われました。それで、行って洗うと、見えるようになりました。」
12 彼らが「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と答えた。

 その人はどこにいるのか。癒されたその人は「知りません」と答えました。自らをいやしてくださった方が、だれであるのかを知るのはもう少し後になってからです。

 誰がいやしを行ったのか。その人はどこにいるのか。癒された本人が知らない。それがここでイエスさまがなさった癒しの御業でした。
 人間のわざは、つねに自分が中心です。自分が前面に出て、自分を宣伝し、自分の誉れ、栄光を求めます。ステージ上で輝くばかりの人間のわざが称賛される。しかし神さまのわざは、常に隠されています。主はご自身を隠される。その人の幸せだけを残して自らは姿を消される。人間には不思議です。また多くの場合人間はそれに気づこうとしません。
 今日も主は全世界の人々のために太陽を昇らせてくださいました。太陽を昇らせてくださった方はどこにいるのか。人間は答えます。「知りません」。もしこれが答えだとすると、そこに人間の不幸があるのだと思います。


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