静まりの時 イザヤ65・17~23〔平和の祝福〕
日付:2024年08月15日(木)
17 見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。
先のことは思い出されず、心に上ることもない。
18 だから、わたしが創造するものを、
いついつまでも楽しみ喜べ。
見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、
その民を楽しみとする。
19 わたしはエルサレムを喜び、
わたしの民を楽しむ。
そこではもう、泣き声も叫び声も聞かれない。
神さまは、新しい天と新しい地を創造すると言われました。また重ねて、エルサレムを創造すると言われました。今ある天と地も神さまの創造されたものです。しかしそれらが過ぎ去って、新しい天と地を創造する。そしてエルサレムを創造する。
その新しい天と地を楽しみ喜べ、と言われます。また神さまご自身は、自らが創造したエルサレムを喜ぶ、そうして「わたしの民」を楽しむ、と言われます。
20 そこにはもう、数日しか生きない乳飲み子も、
寿命を全うしない老人もいない。
百歳で死ぬ者は若かったとされ、
百歳にならないで死ぬ者は、
のろわれた者とされる。
21 彼らは家を建てて住み、
ぶどう畑を作って、その実を食べる。
22 彼らが建てて他人が住むことはなく、
彼らが植えて他人が食べることはない。
わたしの民の寿命は、木の寿命に等しく、
わたしの選んだ者たちは、自分の手で作った物を
存分に用いることができるからだ。
23 彼らは無駄に労することもなく、
子を産んで、突然その子が死ぬこともない。
彼らは主に祝福された者の末裔であり、
その子孫たちは彼らとともにいるからだ。
新しい天と地、そして新しいエルサレムにける祝福。それは、長寿、財産、子孫。この三つは、旧約聖書においてしばしば登場する祝福のかたちです。今日でも人生の祝福と言えば、この三つは重要なテーマだと思います。
聖書の読み方ですが、このように語る旧約聖書の言葉を、私たちキリスト者はどのように読むのがふさわしいのか。旧約聖書は、今日のユダヤ教でもイスラム教でも読むことになっているようです。ユダヤ教では旧約聖書をタルムードなどで、イスラム教ではコーラン(クルアーン)で、いわゆる解釈をして読んでいる、と言えると思います。それに対して、キリスト教はどのように読むのか。ダイレクトに読むのか。エルサレムというと今パレスティナの地域にあるイスラエル国の都市を指しているのか。
キリスト教は、新約聖書において解釈をして読みます。この箇所も新約聖書で解釈されているところがあります。黙示録21章です。
1 また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
2 私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。
3 私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。
「見よ、神の幕屋が人々とともにある。
神は人々とともに住み、人々は神の民となる。
神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。
4 神は彼らの目から
涙をことごとくぬぐい取ってくださる。
もはや死はなく、
悲しみも、叫び声も、苦しみもない。
以前のものが過ぎ去ったからである。」
(黙示録21・1~4)
これはイエスさまの再臨における新しい天と地、そしてその時やって来る都エルサレムを語っているところです。新約聖書は、イザヤの預言がイエスさまの再臨において成就する、と語っているのだと思います。しかもここでは、新しいエルサレムは、「神のみもとから、天から降って来る」と語っています。つまり地上のものはすべて過ぎ去るのです。私たちが待ち望むべきエルサレムとは、天からやってくる、天的なものである、とヨハネは語っています。
黙示録は、迫害の中にあった教会に向かって語られた説教のようなものです。苦しみの中にある民に向かって、はるか天を見上げる信仰を語りました。私たちもこの信仰に生かされています。
キリスト者は、いつか必ず成就される終わりのない楽しみ、喜びを信じています。それは今の現実がどのようなものであっても、その喜びを先取りして生きることができるということです。猛暑が続きます。さまざまな身体の不具合を経験しながら生きなければならないお互いですが、しかし新しい天と新しい地、そして新しいエルサレムが必ずやってくる。そのことを信じて今日も、喜びと祈りと感謝に生きたいと思います。