すべての人との平和を追い求め、また、聖さを追い求めなさい

静まりの時 へブル12・14~17〔平和を求めよ〕
日付:2024年08月06日(火)

14 すべての人との平和を追い求め、また、聖さを追い求めなさい。聖さがなければ、だれも主を見ることができません。

 平和を追い求めること。平和とは戦いのないことです。ギリシャ語ではエイレーネーという言葉で、別の個所では平安とも訳される言葉です。平安とは、自分の中で戦いのないこと、平和とは、自分と外との関係において戦いがないこと。いずれも戦いがないことが、平和であり平安です。もし人生がこの平和、そして平安に満ちていればどんなに幸いでしょう。何がなくてもこれさえあれば幸いに生きることができるのではないか。
 信仰をいただくということも、極端な言い方をすれば、この平和をいただくことではないかと思います。イエスさまを信じて、神さまとの関係において和解をいただきました。そうして自分との関係において和解し、それが周りの人びととの関係において和解を生み出していく。自分を受け入れられていない者は、他者との関係において大なり小なりの問題を生み出していきます。自分を受け入れるためには、神さまにお出会いしなければならない。神さまが私のことをOKとしてくださることに出会って、はじめて人間は自分を受け入れることができる。自分の人生を受け入れることができるのです。自分の人生を受け入れている人は、その周りに平和を築いていきます。そういう人に自分もなりたいと思います。自分を受け入れている人は、優しさに満ちています。そういう人の隣にいると心が安らぎます。
 さて、平和を追い求める、戦いを生まない、ということが、少し誤解される場合もあると思います。戦いが生まれる場面というのは、単に意見の違いだけでなく、義を追い求めるときにも生まれるものです。義を追い求める中で、しかし戦いを避けようとするならば、結局、義をあいまいにせざるを得なくなります。清濁併せ呑む、みたいなことが平和を築くと捕らえられてしまいます。へブル書は、平和を追い求めよ、と語ったとたんに、「聖さを追い求めなさい。聖さがなければだれも主を見ることができません」と語ります。
 私たち人間は、平和を追い求めることで聖さがあいまいになったり、逆に聖さを追い求めることでいたずらに戦いを生み出したりと、どちらか一方に偏ってしまう。信仰に生きるということは、この両者、すなわち平和と聖さが、ともに実現する道を私たちに与えるのだと思います。またそうでなければイエスさまを信じたことになっていない、ということだと思います。

15 だれも神の恵みから落ちないように、また、苦い根が生え出て悩ませたり、これによって多くの人が汚されたりしないように、気をつけなさい。

 平和を追い求めること、そして聖さを追い求めること。それは、神さまの恵みから落ちないようにすることです。また私のことだけではなく、共に生きる人たち、教会の仲間が神さまの恵みから落ちないようにすること。それが平和を追い求めることであり、同時に清さを追い求めることでもあります。
 苦い根が生え出て悩ませることがある、それによって多くの人が汚されてしまう。そういう現実があったのだと思います。教会は常にそのような脅威にさらされている。個人の信仰生活においてもそのような信仰の戦いを経験する。
 苦い根が生え出て悩ませる、とはいったいどのようなことでしょう。具体的にはどういったことだったのでしょう。
 ヘブル書は、イエスさまこそ、まことの神である。世界の創造者であり、贖い主である。とりなしてである、ということを明らかにしようとした書物です。イエスさまを単なる人間としてしまったり、逆に神であって人間ではなかったとしてしまう誤謬に教会が揺れ動く中にあって、イエスさまは、まことの神であり、同時に、まことの人であると語る書物です。
 イエスさまは、私たちと同じ人間であるからこそ、私たちを救うことができます。またまことの神さまだからこそ私たちを救うことができるのです。もしかすると、ここで「苦い根が生え出て悩ませる」とはそういう教理的な問題だったのかもしれません。しかしそれは教理的な問題であるとともに、信仰生活の問題として深く影響を与えたのだと思います。教理の問題は、つねに信仰生活の問題と直結しています。
 この二性一人格が不明確になると、平和を追い求めること、そして同時に聖さを追い求めることができなくなる。

16 また、だれも、一杯の食物と引き替えに自分の長子の権利を売ったエサウのように、淫らな者、俗悪な者にならないようにしなさい。
17 あなたがたが知っているとおり、彼は後になって祝福を受け継ぎたいと思ったのですが、退けられました。涙を流して求めても、彼には悔い改めの機会が残っていませんでした。

 ここで急にエサウの物語が引用されます(創世記25章29節以降)。「こうしてエサウは長子の権利を侮った」と創世記の該当箇所は締めくくられています。長子の権利を侮る、軽く見る、それが「淫らな者、俗悪な者」の根本的な問題である、というようです。
 確かに平和を追い求めない、そして聖さを追い求めない、そうして罪を犯してしまう、淫らに生きてしまう、俗悪な者となってしまう。それは、結局、神さまの祝福が分かっていないということ、あるいは少しは分かっているかもしれないけれども、重要視していない。神さまの祝福よりももっと大切なものがある、という生き方そのものの問題なのだと思います。

 神さまの祝福は、何をもってしても替えることのできない尊いものです。神さまの祝福というと、ちょっと抽象的な感じがしますが、私たちがこうして日々生かされてる中にも、神さまの祝福はあふれています。神さまの祝福があるからこそ、私たちは生かされているのです。毎日太陽が昇ります。気候が守られています。昨日は、あさイチで、猛暑の中どのように暮らすか、という問いに、あるタレントは、太陽の表面温度は猛烈に高い(そこでは200万度といわれていたように思いますが、一応摂氏6千度、コロナが100万度以上だそうです)。それが、徐々に冷やされて、地球に到達するときには、40度より低くなっているのだから、少々暑くてもありがたく思わなければならない、などというようなことを言っておられました。それはともかく、何とか生かされていることは、ありがたいことです。そこにも神さまの祝福を発見します。

【へブル12・14~17】
14 すべての人との平和を追い求め、また、聖さを追い求めなさい。聖さがなければ、だれも主を見ることができません。
15 だれも神の恵みから落ちないように、また、苦い根が生え出て悩ませたり、これによって多くの人が汚されたりしないように、気をつけなさい。
16 また、だれも、一杯の食物と引き替えに自分の長子の権利を売ったエサウのように、淫らな者、俗悪な者にならないようにしなさい。
17 あなたがたが知っているとおり、彼は後になって祝福を受け継ぎたいと思ったのですが、退けられました。涙を流して求めても、彼には悔い改めの機会が残っていませんでした。


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