静まりの時 第一コリント13・1~13〔隣人を愛する〕
日付:2024年08月03日(土)
1 たとえ私が人の異言や御使いの異言で話しても、愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです。
2 たとえ私が預言の賜物を持ち、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、私は無に等しいのです。
3 たとえ私が持っている物のすべてを分け与えても、たとえ私のからだを引き渡して誇ることになっても、愛がなければ、何の役にも立ちません。
「異言」「預言」「奥義」「知識」「信仰」「施し」「殉教」。いずれも愛にまさるものではない。愛がなければ、それらは何の意味もない、とパウロは語りました。
愛のない異言、愛のない預言、愛のない奥義、愛のない知識、愛のない信仰、愛のない施し、愛のない殉教。驚くべきことに、罪びとである人間は、これらをやってのけてしまう。
では、愛とはいったいなんであるのか。愛があるというのはどういうことをいうのか。
4 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、
6 不正を喜ばずに、真理を喜びます。
7 すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。
どれ一つとっても、一言では語りえない深さを持っています。ねたみや自慢、高慢によって異言や預言がもてはやされること。ねたみに駆られて奥義や知識を求めること、礼儀に反する信仰、苛立ちや人のした悪に執着する故になされる殉教、などなど。いずれもそこには愛はない。
愛は自分の利益を求めない。愛に生きるということは、自分よりも神さまを優先することである。しかし神さまをまず愛するならば、必ず自分自身を本当の意味で愛する者となる。
愛は不正とは全く相容れないものである、愛とは真理を喜ぶ。真理をゆるがせにしつつなされる愛はもはや愛ではない。
愛は、忍耐、信頼、希望に満ちている。忍耐、信頼、希望のないところには愛はない。
8 愛は決して絶えることがありません。預言ならすたれます。異言ならやみます。知識ならすたれます。
9 私たちが知るのは一部分、預言するのも一部分であり、
10 完全なものが現れたら、部分的なものはすたれるのです。
11 私は、幼子であったときには、幼子として話し、幼子として思い、幼子として考えましたが、大人になったとき、幼子のことはやめました。
12 今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、そのときには顔と顔を合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、そのときには、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。
愛は絶えることがない、永遠である。限りがない。限りある人間が、愛に出会うとき、それを完全にとらえるなどということはあり得ない。子どもはそれが分からない。しかし信仰の大人になった今、永遠の愛に出会う私には限界があることをわきまえるようになった。だから今は一部分しか知りえないことに、健やかに生きる。しかし「そのとき」がやってくる。いつかはわからないが必ずそのときがやってくる。そのときには、今私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知るようになる。愛を信じる者は、そのときを待ち望んでいる。どんなときにもこの希望に私たちは生かされています。それはまた現状に完全を求めなければならないということから自由にされていることでもあります。
13 こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。
「すぐれている」というと、優れている、優位である、と理解しがちですが、共同訳などでは「大いなるもの」と訳されています。原文では「メガス」。すなわち、メガ、でっかい、ということです。信仰と希望も大切だけれども、愛がちゃんと存在しているならば、それで十分である。信仰や希望を補って余りあるほどに大きなものだ、ということでしょう。
【第一コリント13・1~13】
1 たとえ私が人の異言や御使いの異言で話しても、愛がなければ、騒がしいどらや、うるさいシンバルと同じです。
2 たとえ私が預言の賜物を持ち、あらゆる奥義とあらゆる知識に通じていても、たとえ山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、私は無に等しいのです。
3 たとえ私が持っている物のすべてを分け与えても、たとえ私のからだを引き渡して誇ることになっても、愛がなければ、何の役にも立ちません。
4 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、苛立たず、人がした悪を心に留めず、
6 不正を喜ばずに、真理を喜びます。
7 すべてを耐え、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを忍びます。
8 愛は決して絶えることがありません。預言ならすたれます。異言ならやみます。知識ならすたれます。
9 私たちが知るのは一部分、預言するのも一部分であり、
10 完全なものが現れたら、部分的なものはすたれるのです。
11 私は、幼子であったときには、幼子として話し、幼子として思い、幼子として考えましたが、大人になったとき、幼子のことはやめました。
12 今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、そのときには顔と顔を合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、そのときには、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。
13 こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です。