互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

静まりの時 ヨハネ13・31~35〔隣人を愛する〕
日付:2024年08月02日(金)

31 ユダが出て行ったとき、イエスは言われた。「今、人の子は栄光を受け、神も人の子によって栄光をお受けになりました。
32 神が、人の子によって栄光をお受けになったのなら、神も、ご自分で人の子に栄光を与えてくださいます。しかも、すぐに与えてくださいます。

 「栄光」とは、新約聖書のギリシャ語では、光を輝かせる、という意味です。しかし当時の彼らの日常の言葉はヘブル語の親戚のようなことばであるアラム語で、聖書はヘブル語であったと推測されますから、ここは、旧約聖書のヘブル語で考えてみてもよいと思います。ヘブル語で栄光という言葉は、重たい、という意味を持っています。ある先生は、存在感、と説明しておられました。
 人の子、すなわちイエスさまが栄光をお受けになる、それによって神さまご自身が栄光をお受けになる、また、神さまが人の子によって栄光をお受けになるならば、神さまご自身も、人の子に栄光を与えて下さる。それは、まさにイエスさまがその存在感を明らかにしてくださる、それによって、神さまご自身が存在感を確かにしてくださる。目には見えないけれども、確かに神さまは存在しておられる、生きて働いておられる、ということが明らかにされる。
 いったい何によって、神さまはその存在感を明らかにされるのか。すぐにでも人の子に与えられる「栄光」とはいったいなんであるのか。

33 子どもたちよ、わたしはもう少しの間あなたがたとともにいます。あなたがたはわたしを捜すことになります。ユダヤ人たちに言ったように、今あなたがたにも言います。わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません。

 イエスさまが「行くところ」とはいったいどこであるのか。弟子たちには行くことのできないところとはいったいどこなのか。それはこの場合、イエスさまの逮捕、不当な裁判、十字架による死、葬り、復活、これら一連の受難を指していると思います。
 受難が、すなわち、栄光である。受難によって、神さまが確かに生きて働いておられる、確かに存在しておられることが明らかにされる。まさに神さまの独壇場、それが主イエスさまの受難である、というのです。
 弟子たちは、そして私たちも、このイエスさまの受難にはついて行くことができません。受難は、人間もわざではなく、神さまの御業なのです。

34 わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
35 互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。」

 ここで「新しい戒め」が与えられます。受難の予告が語られたところで、互いに愛し合いなさい、という新しい戒めが語られるのです。互いに愛し合う、ということは、主の受難が語られるところでこそ、実現することである。あるいは、主の受難と復活という神さまの圧倒的なご存在が示されるところでこそ、互いに愛し合う、ということは可能となる。
 愛するということは、主の十字架への信仰がなければ、そもそも成り立たないのだと思います。誰かを愛する、ということにおいて、その愛が真実の愛であるためには、大小を問わず、十字架を担う、ということがどうしても必要なのです。共に生きる、ということにおいても、大なり小なり十字架を担うということが問われるのです。自分一人で思うようにやれればどんなに楽ちんでストレスのないことか、と思うところで、しかし誰かと一緒にやろうとする。自分はこうしたい、ということがある、しかし共に生きる人からは別の道が語られたりする。そこで自分の主張や思いを少しコントロールして相手に合わせていこうとする。そこにも十字架を担うということが必要となってくる。そんな十字架を日々担う者によって、互いに愛し合う、ということがなされています。
 単なる人間関係の中における十字架を担う、ということだけであれば、それほど難しく考える必要はないかもしれません。しかしこれに公共的な善悪が絡んでくると、ことは複雑です。
 たとえば、コーヒーにするか紅茶にするかで、諸事情によって自分の気持ちとは違った選択を受け入れなければならない事態に直面したとき、自分の気持ちをコントロールするだけでよいですし、飲まないという対応でも良いかもしれません。
 しかし、サッカーの試合で、試合に勝つという公共的な福祉を目指している場合、競技者は監督の指示や仲間の指示に従わなければなりません。自動車を運転している場合では、赤信号では止まらなければなりませんし、制限速度も守らなければなりません。もしそれらに従わない、私の自由だ、という人がいて、その人と一緒に生きていく場合に、まあどちらでもいいか、そういう人とも一緒に生きていかなければならないのだから、私が十字架を負う、すなわち犠牲的に我慢すればよいか、ということになるのか。
 いややはり心を鬼にして、それは止めてください。監督に従ってください、交通ルールを守ってください、と言うことが大切でしょう。それがまた、ともに生きるということにおける十字架を担うことなのではないか。
 互いに愛し合いなさい、と主は言われたのです。一方的に相手を愛せよ、といわれたのではありません。愛することと、愛されること、が一つになるように、と言われたのです。
 ですからこの、互いに愛し合いなさい、という新しい戒めは、神さまへの愛なくしては可能となりません。相対的な愛だけでは、矛盾と限界が起こってくる。サッカーの試合では、競技者を監督する監督者の存在への信頼と尊敬、交通ルールでいえば、交通ルールへの信頼と尊敬がどうしても必要なのです。赤信号を守っていない人に対して誰かが赤信号を守ってください、と注進した場合、相手が、いやなこと言われたわ~、と言われたとすれば、それは、その人が公共の福祉ではなく単に人間関係の中でしか考えようとしていないことが明らかになっていて、交通ルールへの信頼と尊敬がないということになります。
 教会では、神さまがご支配されているので、互いに愛し合う、ということは分かりやすいはずなのですが、それがまた、それぞれの神さまに対するイメージがいろいろなので、かえってややこしい場合が起こります。ですからやはり教会にはルールが必要ですね。
 ルール作りには、二種類あって、たとえば、愛餐会はうどんにするかカレーライスにするか、というのは話し合いによって決めればよいことです。しかし、イエスさまは神さまか、とか礼拝をどう行うか、とかは話し合いで決めることではありません。それは牧師が一方的に決めることです。もちろん牧師が独創的に決めるということではありません。牧師は神学を学び、歴史を踏まえ、訓練を受けたうえで、その中から、公同の教会を信じるという信仰によって決定していく。それを会衆に分かち合い、時間をかけて理解していただき、実施していく。それはまさに、荒野を旅する民が、オアシスの場所を唯一知っている民のリーダーに導かれていくのと同じです。旅のリーダーは、責任感をしっかりと持って、自己研鑽をしながらリードして行かなければなりません。民は、それに従っていかなければならない。そうでなければ、民はいつまでもオアシスにたどり着くことができない。
 ここで問題になるのは、そのリーダーが果たして正しくオアシスに導いていけるであろうか、ということでしょう。自己研鑽も大切ですが、どうしても必要なのは、リーダー自身が誰かから、教えられる、指導される、という人でなければならない、ということです。マニプレーター的な人や協調性のない人ではいけない。ですから牧師はどうしても一人であってはいけない。仲間が必要なのです。

【ヨハネ13・31~35】
31 ユダが出て行ったとき、イエスは言われた。「今、人の子は栄光を受け、神も人の子によって栄光をお受けになりました。
32 神が、人の子によって栄光をお受けになったのなら、神も、ご自分で人の子に栄光を与えてくださいます。しかも、すぐに与えてくださいます。
33 子どもたちよ、わたしはもう少しの間あなたがたとともにいます。あなたがたはわたしを捜すことになります。ユダヤ人たちに言ったように、今あなたがたにも言います。わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません。
34 わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
35 互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。」


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