あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい

静まりの時 マタイ5・43~48〔隣人を愛する〕
日付:2024年07月29日(月)

43 『あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。

 5章20節に

「20 わたしはあなたがたに言います。あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません。」

 と書かれています。「あなたがたの義」すなわちキリスト者の義が、「律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ」ならない。そうでなければ「あなたがたは決して天の御国に入れない」とイエスさまは言われました。もちろん死んだあと天国に行けない、などといわれているのではなく、天国、すなわち神さまのご支配の中に生きていることにならない、ということであって、今生きているこのときのことが問われています。イエスさまを信じて天国への切符は確かに頂いたけれども、それにふさわしい生き方が今このときできているとは言えないのではないか、ということでしょう。
 そこで次の21節に

「21 昔の人々に対して、『殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。」

 と続きます。これ以降、昔からの言い伝え、あるいは、律法学者やパリサイ人の語ってきた義を一つひとつ取り上げて、それに対して、キリスト者はこうでなければならない、と語られてきます。
 今朝は、愛について、です。律法学者やパリサイ人から、隣人を愛し、敵を憎めと今まで言われてきた。しかし、これからは

44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。

 イエスさまを信じる者は、このように生きるのだ、といわれました。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ、と。それは

45 天におられるあなたがたの父の子どもになるためです。

 私たちはイエスさまを信じたそのときから、父の子ども、すなわち神の子とされました。人間の子どもは、生まれたときにすでに完全な「人間」ですが、その成長とともに、やはり「人間になる」道を歩んでいきます。信仰者も、イエスさまを信じてそれで終わりではなく、信じたそのときから、神の子どもになる、という歩みが始まったのです。

父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです。
46 自分を愛してくれる人を愛したとしても、あなたがたに何の報いがあるでしょうか。取税人でも同じことをしているではありませんか。
47 また、自分の兄弟にだけあいさつしたとしても、どれだけまさったことをしたことになるでしょうか。異邦人でも同じことをしているではありませんか。

 父なる神さまは、悪人にも善人にも分け隔てなく太陽を昇らせ、雨を降らせてくださる。それが神なるお方のあり方である。であれば、その神の子となったあなたがたも、同じように、隣人を愛することはもとより、敵に対しても分け隔てなく愛を傾けるべきではないか。
 ここに「取税人」や「異邦人」が引き合いに出されていますが、それはこれを書いたマタイ自身が取税人であったことが影響しているかもしれません。異邦人については、このマタイの福音書の最初の読者が、ユダヤ主義のキリスト者たちだったからかもしれません。私たちが思う以上に、異邦人との壁は高かったのだと思います。

48 ですから、あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい。

 「完全」とはいったい何か。律法学者やパリサイ人は、隣人は愛するけれども、敵は憎む、ということが「完全」なことだったのだと思います。しかしここでイエスさまが言われたのは、敵をも愛する、ということこそ「完全」なことなのだ、ということです。
 敵を憎むことで完全さが保たれると考えてきたものにとって、敵を愛することによってこそ完全なのだ、と言われて果たしてそれを受け入れることができるのか。これは大きなチャレンジなのだと思います。しかしもしこれが可能となるならば、今も起こっているパレスティナ地域の戦争、その他さまざまなところでの紛争はたちどころに解決するのではないか。結局、人間が完全だと思っているその完全さを追求することが生み出した争いであるとすれば、そこで求められている完全さというのは、実は不完全ということであり、本当の完全さを求めるのであれば、そこにも愛を傾けていること以外にはないのではないか。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈ることこそ、本当の完全さなのだ、と。
 そのような完全さに生きる、完全である、ということが、キリスト者に求められていることなのだと思います。

 ただこれれには、善悪をあいまいにすることではないか。正義を見失うことではないか、という批判の声は聞こえてきます。しかしこのような批判が生まれるとすれば、そこでは、ゆるす、ということの理解に間違いが起こっているからではないか、とも思います。
 キリストの十字架こそ、神のゆるしが決定的に語られたところであると信じる私たちは、そこで尊い神の子の血が流されたこと、命がささげられたことを知っています。ゆるしは、許し、すなわち許可すること、ではありません。ゆるしは、赦しであって、犠牲が伴ったことなのです。そしてもうこれ以上は罪を犯さない、少なくとも犯さないようにと務める、という悔い改めと決意に基づくものです。それがまことの赦しなのです。
 その赦しは、人間と人間の間の問題ではありません。神さまと人間との関係におけることです。

 ですから私たち人間関係の中における敵対関係については、私たちとしてはひたすら、愛と祈りによって対応することがふさわしいことなのだと思います。具体的にはさまざまな形があるかと思いますが、少なくとも心の中でのゆるしが成されていないと、それは自分自身を不自由にし続けることになります。不自由さは、不完全さとも通じることです。

 今日は教会学校デーキャンプの日です。良い天気となりました。猛暑が予想されますが、熱中症、水際での危険、食中毒などなど、あらゆる危険から守られて楽しく有意義な一日となりますように。

【マタイ5・43~48】
43 『あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。
44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。
45 天におられるあなたがたの父の子どもになるためです。父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです。
46 自分を愛してくれる人を愛したとしても、あなたがたに何の報いがあるでしょうか。取税人でも同じことをしているではありませんか。
47 また、自分の兄弟にだけあいさつしたとしても、どれだけまさったことをしたことになるでしょうか。異邦人でも同じことをしているではありませんか。
48 ですから、あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい。


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