静まりの時 第一コリント10・23~33〔共に生きる〕
日付:2024年07月24日(水)
23 「すべてのことが許されている」と言いますが、すべてのことが益になるわけではありません。「すべてのことが許されている」と言いますが、すべてのことが人を育てるとはかぎりません。
すべてのことが「許されている」。この場合のゆるしは、赦しではなく「許し」です。免許証の「許」、許可する、という意味です。キリスト者は何よやっても自由である、という、その言葉がここで括弧書きで記されています。つまり聖句というよりも(もちろん聖書の言葉はすべて聖句なのですが)、当時そのように言われていた慣用句、流行語があったのでしょう。キリスト者の間では、すべてのことが許されている、とは言われているけれども、「すべてのことが益になるわけではない、すべてのことが人を育てるとは限らない、といいます。
24 だれでも、自分の利益を求めず、ほかの人の利益を求めなさい。
最優すべき目標は、自分の利益を求めない、ほかの人の利益を求める、ということである、といいます。
教会に来る、ということは、何らかの救いを求めることです。それは結局は、自分の利益を求める、ということではないでしょうか。しかしここで、イエスさまに出会い、救われたものは、その生き方が180度変えられて、自分の利益を後回しにして、ほかの人の利益を求める者となるのだ、というのです。
もし依然、私の益を求める生き方をしているとすれば、それは、本当に私は救われているのだろうかと、考えなければならないようです。
25 市場で売っている肉はどれでも、良心の問題を問うことをせずに食べなさい。
市場で売っている肉は、その多くが偶像に献げられた物であった、ということが周知されていました。その中にあって、良心の問題を問うことをせず、何でも食べなさい、といいます。今でいうと神社仏閣、さまざまな異教の中で取り扱われたものが、食物として供された場合、何も気にせずに食べればよい、というのです。
26 地とそこに満ちているものは、主のものだからです。
なぜなら、たとえ偶像に献げられた物であっても、それはもともとは神さまのものだったからです。私たちは、すべてのものは神さまによって創造されたと信じています。いまも全世界を見渡せば、そこにはさまざまな宗教、民族、習慣があります。しかしそのどれ一つとして「主のもの」でないものは、ないのです。ですから、恐れることなく、自由な気持ちで食べることができる。それがキリスト者である、といいます。よかったです。
27 あなたがたが、信仰のないだれかに招待されて、そこに行きたいと思うときには、自分の前に出される物はどれも、良心の問題を問うことをせずに食べなさい。
28 しかし、だれかがあなたがたに「これは偶像に献げた肉です」と言うなら、そう知らせてくれた人のため、また良心のために、食べてはいけません。
ここに、さらに深い自由が記されています。何んでも自由に食べることができる、しかし、「だれかがあなたがたに『これは偶像に献げた肉です』と言うなら」、つまり偶像に献げられたものを食べることを躊躇する、それはどうしてもできない、と考えている人がいる場面では、「そう知らせてくれた人のため、また良心のために、食べてはいけません」というのです。
ここに、食べる自由とともに、食べないという自由が記されています。食べるか食べないか、その選択の自由です。キリスト者の自由とは、自分勝手、気まま、利己的、放銃、というものとは全く異質な自由です。利己的な自由は、自由なのではなく、自分の感情の奴隷となっているだけです。
29 良心と言っているのは、あなた自身の良心ではなく、知らせてくれた人の良心です。私の自由が、どうしてほかの人の良心によってさばかれるでしょうか。
30 もし私が感謝して食べるなら、どうして私が感謝する物のために悪く言われるのでしょうか。
これはなかなか分かりにくい言葉です。竹森先生は以下のように解釈されていました。
「他の人のことを思って、自分を制することが、どうして、自分の自由を失うことになるのか」。
他の人のことを思って、自分を制することが、自分の自由を侵害されたと思う人もいるかもしれません。しかしキリストに出会って以来、私たちは、他の人をおもんぱかって、自分を制することができる、そのような自由に生きる者とされたのです。
私たちがどうして今自由に生きる者となったのか。それはイエスさまの十字架と復活によることです。イエスさまの御いのちによって、私たちは罪赦された、義とされた、そうして自由にしていただいたのです。これはもったいないことです。このもったいなさが分かるならば、どうして自分の気ままやわがまま、いたずらな自己主張ができるでしょう。他人のことを思って、自分を制することができないとすれば、イエスさまの十字架の犠牲が私は分かっていない、ということを表明しているようなものです。
31 こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。
32 ユダヤ人にも、ギリシア人にも、神の教会にも、つまずきを与えない者になりなさい。
33 私も、人々が救われるために、自分の利益ではなく多くの人々の利益を求め、すべてのことですべての人を喜ばせようと努めているのです。
神さまのご栄光を現すために、つまずきを与えない者となる、そのために、自分の利益ではなく多くの人々の利益を求める、すべての人を喜ばせようと努める、努力する。それがキリスト者がいかに自由に生きているかの証しです。
「ユダヤ人にも、ギリシャ人にも、神の教会にも」。面白い言い方です。すべての人にも、という意味だと思います。しかしここに明らかにユダヤ人、ギリシャ人、つまり世界のすべての人と区別して「神の教会」と語られています。
私たち教会に生きる者は、この世のものでありつつも、国籍を天に持つものなのです
昨日は滋賀超教派牧師会に久しぶりに参加させていただき、教派、団体を越えて牧師、伝道者たちとの交わりの時をいただきました。参加したのには一つ理由があって、この4月の英国とドイツの旅の報告をしてほしいといってくださったからでした。30分ほどでしたが、スライドを交えて旅の報告、懐かしい宣教師の先生方との交流、英国、ドイツのWEC本部訪問、などお話ししてきました。
次週に予定されている教会学校の一日キャンプの保険手続きも済ませました。今年は昨年よりもさらに参加者が増えて、保険の申し込み用紙が1枚では足りないことになりました。水辺での事故のニュースが続ていますので、教会学校スタッフ以外からも応援に駆けつけてくださる方がおられるようです。今日は、私もライフジャケットを買いに行こうかともくろんでいます。ライフジャケットもいろいろあるようで、本格的な救命胴衣では、遊びに使うことが難しいそうですので、シュノーケリングなんとかというものが良いそうですが。なんだかわくわくします。
【第一コリント10・23~33】
23 「すべてのことが許されている」と言いますが、すべてのことが益になるわけではありません。「すべてのことが許されている」と言いますが、すべてのことが人を育てるとはかぎりません。
24 だれでも、自分の利益を求めず、ほかの人の利益を求めなさい。
25 市場で売っている肉はどれでも、良心の問題を問うことをせずに食べなさい。
26 地とそこに満ちているものは、主のものだからです。
27 あなたがたが、信仰のないだれかに招待されて、そこに行きたいと思うときには、自分の前に出される物はどれも、良心の問題を問うことをせずに食べなさい。
28 しかし、だれかがあなたがたに「これは偶像に献げた肉です」と言うなら、そう知らせてくれた人のため、また良心のために、食べてはいけません。
29 良心と言っているのは、あなた自身の良心ではなく、知らせてくれた人の良心です。私の自由が、どうしてほかの人の良心によってさばかれるでしょうか。
30 もし私が感謝して食べるなら、どうして私が感謝する物のために悪く言われるのでしょうか。
31 こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。
32 ユダヤ人にも、ギリシア人にも、神の教会にも、つまずきを与えない者になりなさい。
33 私も、人々が救われるために、自分の利益ではなく多くの人々の利益を求め、すべてのことですべての人を喜ばせようと努めているのです。