静まりの時 ローマ15・1~6〔共に生きる〕
日付:2024年07月22日(月)
「1 私たち力のある者たちは、力のない人たちの弱さを担うべきであり、自分を喜ばせるべきではありません。」
力のある者と力のない人たち。教会には力のある者も力のない者もいます。教会は、力のある者も力のない者もともに自由に集うことのできるところです。
力がないとはどのようなことなのか。力のない人の弱さとはいったいなんであるのか。14章1、2節に次のような言葉があります。
1 信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。
2 ある人は何を食べてもよいと信じていますが、弱い人は野菜しか食べません。
(14・1,2)
ここに弱い人とは、野菜しか食べないひとである、とあります。ベジタリアンということではありません。肉といえば偶像に献げられた肉のことで、そのような肉は一切口にしない、もし食べるならば、自らに汚れを招く、祝福を失ってしまう、と考え、野菜しか食べないようにしている人たちのことです。そのような信仰的に潔癖な人のことを、信仰の弱い人、と語っています。
今朝のみ言葉の、力のない人の弱さ、とは、このような信仰的に潔癖な人のこと、さらには、戒律に厳しく、このようにしなければならない、と自分を縛っている人のことをいうのです。もし私たちが、信仰の強い人のことを、いわゆる偶像礼拝には一切かかわらずに生きる人のことを指して語っているとすれば、パウロの語ることとは全く逆のことになります。
2 私たちは一人ひとり、霊的な成長のため、益となることを図って隣人を喜ばせるべきです。
3 キリストもご自分を喜ばせることはなさいませんでした。むしろ、
「あなたを嘲る者たちの嘲りが、
わたしに降りかかった」
と書いてあるとおりです。
しかし、逆に自分は信仰が強い、力がある、だから偶像に献げられた肉など食べてもどういったことではない、キリスト者は自由なんだ、としてかたわらにいる信仰の弱い人を悩ませたり心穏やかでない状態にしてしまうとすれば、それはやはり良くないことである、というのです。私たちは、みな自分を喜ばせるのではなく、隣人を喜ばせることを第一にすべきである、それが霊的な成長である、そして自分自身にも教会にとっても益となることであるというのだと思います。
4 かつて書かれたものはすべて、私たちを教えるために書かれました。それは、聖書が与える忍耐と励ましによって、私たちが希望を持ち続けるためです。
偶像礼拝に献げられた肉を食べるかどうか、それはまた、いにしえからの戒律にたいしてどう向き合うか。旧約聖書に伝えられてきた律法をどのように守っていくのか、と密接に結びついています。私たちは救われたから、もうそんなホコリのかぶったものは必要ないのか。パウロはいいえそうではない。今まで書かれたものは、どれひとつ不必要なものはない。すべて、私たちを教えるためのものであった。だから大切に読むべきである。
ではどのように読むのか。聖書は、実は忍耐と励ましが書かれている、その忍耐と励ましによって、希望を持ち続ける。そのために旧約聖書は書かれたのだ。そのような読み方をしよう、と言います。戒律を編み出すための書物ではなく、忍耐と励まし、希望の書物として読もう。
5 どうか、忍耐と励ましの神があなたがたに、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを抱かせてくださいますように。
6 そうして、あなたがたが心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父である神をほめたたえますように。
力のある者も、力のない者も一つになって、声を合わせて、三位一体の神さまをほめ讃えよう。力のある者は、力のあるままに、力のない者は、力のないままに神さまをほめ讃えよう、と。
力のある者、力のない者が、共に神さまをほめたたえる。お互いが同じ思いを抱かせてくださる。力のある者が力のない者となるのではない、力のない者が力のある者となるのでもない。それぞれがそのままに、「同じ思いになる」。この同じとはいったいなんであるのか。
それは三位一体の神さまをほめ讃える、すなわち礼拝においてである。ともに礼拝を献げる、ということにおいて、一つとされていく。お互いばかりを見つめていれば、その違いばかりが見えてしまう。しかし互いの違いはそのままに、神さまを見上げる。そこで一つとされる。
昨日は、クライストクラシー、ということを少し言いました。教会は、誰かひとり、あるいは特別な人の集団によって、他が支配されるようなことろであってはならない。そういう意味では民主的なところでなければならない。しかし民主とはいったいなんであるのか。結局さまざまな違いのあるお互いが、利己的な主張をするところなのか。本当に一人一人が大切にされる、ということは、利己的な思いを客観的にし、自分と違う考えや意見を持つ人たちを尊重することで、可能となることなのだと思います。この自分の意見を、客観視する、ということ。それがキリスト者の真骨頂、真面目です。なぜなら、イエスさまを信じたそのときから、自分が主であることを捨て、イエスさまに主となっていただいたからです。このイエスさまのもとに一つとされていく。民主主義、すなわち人が支配をするところではなく、「キリスト」「クラシー」、キリストが支配するところ、それが教会なのです。ですから、私たちは礼拝においてこそ一つとされるのです。
【ローマ15・1~6】
1 私たち力のある者たちは、力のない人たちの弱さを担うべきであり、自分を喜ばせるべきではありません。
2 私たちは一人ひとり、霊的な成長のため、益となることを図って隣人を喜ばせるべきです。
3 キリストもご自分を喜ばせることはなさいませんでした。むしろ、
「あなたを嘲る者たちの嘲りが、
わたしに降りかかった」
と書いてあるとおりです。
4 かつて書かれたものはすべて、私たちを教えるために書かれました。それは、聖書が与える忍耐と励ましによって、私たちが希望を持ち続けるためです。
5 どうか、忍耐と励ましの神があなたがたに、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを抱かせてくださいますように。
6 そうして、あなたがたが心を一つにし、声を合わせて、私たちの主イエス・キリストの父である神をほめたたえますように。