力を神に帰せよ

静まりの時 詩篇68・33~36〔自然の中で神をたたえる〕

日付:2024年07月18日(木)

※新改訳では32~35節になります。

32 地の王国よ 神に向かって歌え。

主にほめ歌を歌え。セラ

この地にある「王国」が、神さまに向かって歌う。王国を治める「王」は、何にもまして権力のある存在ですが、その王の権力も無限ではない。自分たちの王の権力を凌ぐ存在がある、ということを王国自身が知っている。その王の権力を凌ぐ存在が、王の権威を裏付けるものとして利用される場合も多いのだと思いますが、そうではなく、王を治める、王を諫める存在としてある。王自身が、恐れる(畏れる)存在を持っている。それこそまことの神さまです。

キリスト者として生きる、ということは、この「恐れる(畏れる)存在」に出会い、導かれていく、ということだと思います。

33 いにしえから 天の天を御される方に。

聞け。神は御声を発せられる。力強い御声を。

その神さまは、天の天を御されています。天の天とはいったいなんであるのか。天にもいろいろな種類や階層があって、その最高位の場所なのか。おそらく聖書はそういうことには全く興味がないのだと思います。とにかく人間の手の及ばない、はるかに高いところ、という感じでしょうか。御される、とはそこを馬で走り回る、という意味だそうで、とにかく天をご自分の完全な支配をもって駆け巡っておられる、それが神さまである、ということでしょう。

その神さまは、御声を発せられます。力強い御声を。声、すなわち言葉を語られる。まことの神さまは言葉を語られます。単に霊的な力であれば、言葉にならないものこそ神さまの存在を感じることになるのではないか、と想像しますが、聖書の神さまは、言葉、なる神さまなのです。そのまことの言葉が、真実に語られたのが、イエスさまの存在そのものです。

34 力を神に帰せよ。

威光はイスラエルの上に

御力は雲の中にある。

力強く語られるその神さまに、力を帰す。この力とはいったいなんであるのか。

生きる力、何かを成す力、愛する力、そのすべてを神さまに帰す。お帰しする。帰す、というのは、文字通りお帰しする、ということですが、与える、渡す、置く、という意味だそうで、私たちが持っている力を、本来の所有者である神さまにお帰しする、私たちの手から力を手放す、ということ。

力は、人間が持っていると、その手垢にまみれてしまい、人間を生かすものにならない。力は、いつも神さまの御手の中に置いておかなければならない。力は、雲の中に、あるいは雲よりもはるかに向こうに存在している。人間にはそう簡単に手にしていいものではない。力を聖なるものとしておく。もし力を行使する場面がやってくるとしても、力は人間が御すには難しいものであることを知っていなければならない。

35 神よ あなたは恐るべき方。

あなたはご自分の聖なる所におられます。

イスラエルの神こそ

力と勢いを御民にお与えになる方です。

ほむべきかな 神。

この神さまが、私たちに力を、勢い、権威を与えて下さる。神さまを離れては私たちは何ひとつ成すことができない。いま私たちに力があるとすれば、それは神さまが与えて下さったものである、と感謝する。

ちなみに「イスラエル」という言葉が出てきますが、旧約聖書の書かれた時代においては、古代イスラエル国家をさしていたと思いますが、今日のイスラエル国とは直接結びつけて読んではいけないと思います。キリスト者としては、これは「教会」を表していると理解することが良いと思います。

【詩篇68・32~35】

32 地の王国よ 神に向かって歌え。

主にほめ歌を歌え。セラ

33 いにしえから 天の天を御される方に。

聞け。神は御声を発せられる。力強い御声を。

34 力を神に帰せよ。

威光はイスラエルの上に

御力は雲の中にある。

35 神よ あなたは恐るべき方。

あなたはご自分の聖なる所におられます。

イスラエルの神こそ

力と勢いを御民にお与えになる方です。

ほむべきかな 神。


投稿日

カテゴリー:

投稿者:

タグ: