静まりの時 マタイ2・13~18(日付:2023年12月26日(火))の中の以下の文章について、もう少し解説してみたいと思います。
慰めを拒むほどの嘆き。それも預言の成就である、というのはにわかには受け入れがたいことです。しかし、この恐ろしい出来事も、決して神さまがコントロール不能になって起こってしまったことではない、と語っているのでしょう。神さまの御手から離れてしまったことではない。この事態の中でも、神さまは、神さまであること、全能者であることをお止めにはなっておられない。むしろその全能のすべてをかけて神であり続けておられる。それは、神さまご自身が、忍耐の限りを尽くして支えておられる、ということなのです。ここに十字架の愛が豊かに現れています。
「2歳以下の男子がみな殺された中に十字架の愛が豊かにあらわされているとはどういうことなのか」という問いですが、決して「2歳以下の男子がみな殺された中」という権力者によるゆるしがたい行為そのものに「十字架の愛が豊かにあらわされた」ということではありません。このヘロデの行為はゆるされない蛮行です。断罪しても仕切ることが出来ません。
しかしそれも聖書の成就であった、と語る聖書の心が一体どこにあるのか。それが私たちの謎であり、またおそらく福音でもあるはずなのです。聖書がそう書くのですから。
理解の助けになることと願いつつ、以下に引用しておきたいと思います。
まず加藤先生のこの個所の説教集から、
愛、主イエスが私どもに本当によく教えてくださった愛は、自分にとって邪魔な人間を引き受けるということです。気持ちの良い人間だけを自分の王国の中に入れて、邪魔になる人間は皆殺してしまう、外に押し除けるとしたら、ヘロデと同じです。
・・・
ヘロデの罪は私どもの罪です。そのことが少しずつ分かってきます。しかし実際私どもは、どんなふうに言われてみても、たった一人の人間を愛そうとする時に、そのことがどんなに自分を疲れさせるかを知っています。どんなに苛立たせるかを知っています。どんなにいやなものか、私どもはよく知っています。愛するということは、いやなことなのです。そのいやなことの中に踏み込んで行った時、しかし、本当の愛が始まるということを、幼な子イエスが教えてくださっているのです。主イエスは、本当にいやなことを引き受けられたのです。それが十字架です。そして主イエスは「自分の十字架を負って、わたしについて来なさい」と言われたのです。よく知っておられるのです。私どもが愛には耐え難い人間であることを。そして、だから主イエスはお生まれになってくださったのだし、いつもあなたがたと一緒に行く(原文のママ)と言ってくださったのではないでしょうか。
加藤常昭、『マタイによる福音書1 加藤常昭説教全集6』、ヨルダン社、1990年、79頁f
ディートリッヒ・ボンヘッファーというドイツの神学者は、このところについてこういう意味の言葉を書きました。ベツレヘムにおいて殺された幼な子たちは気の毒だとわれわれは言うかもしれないけれども、違う。この子供たちは幸せだった。この子供たちは祝福されたのだ。なぜか。イエスのために死んだのだ。そしてイエスは、いつも子供たちから離れないのだ。私は実は一番初めにこの言葉を読んだ時に、心の中で抵抗を感じました。ここに書いてあるではないか。「慰められることさえ願わなかった」という母親の嘆きが。そう思いました。しかし、その慰められることを拒否するような母親の嘆きの中で死んでいった幼な子を指しながら、違う、どんなに深い嘆きの中にある者でもイエスがおられるならば、祝福されるのだと言い切ったボンヘッファーは、ヒットラーの手によって、やはり殺されたのです。幼な子と同じように。そして、ボンヘッファーは言うのです。この子供たちは、イエスと共に今なお生きていると。これは実に大胆な表現です。しかし、私は、そういう言葉を言うことができるし、信ずることができるというのが、信仰なのだなと改めて思いました。
加藤常昭、『マタイによる福音書1 加藤常昭説教全集6』、ヨルダン社、1990年、86頁f
ヘロデの蛮行が、預言の成就であった、という意味は、神さまがこのような行為を容認されたのでも、あるいは何かの目的に利用するために起こされたことでもありません。意味は、分からない、のです。あるいは聖書は沈黙しています。しかし、そのことも神さまはよくご存じである、ということは、この出来事を神さまが「耐えておられる」ということなのだと思います。それが、預言の成就であった、ということを聖書が記している意味だと思います。
十字架上でイエスさまが語られた言葉の一つに
「どくろ」と呼ばれている場所に来ると、そこで彼らはイエスを十字架につけた。また犯罪人たちを、一人は右に、もう一人は左に十字架につけた。
そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」彼らはイエスの衣を分けるために、くじを引いた。(ルカ24・33,34)
救い主なら、今すぐ十字架から降りて自分を救え、という言葉に、すぐにでもそうすることが出来た全能の神であるイエスさまは、そうはなさらず、自らを十字架につけ殺そうとする人びとの赦しを祈られました。十字架の苦しみは、理不尽な苦しみに耐えてくださった苦しみでもあります。そしてそうまでして罪びとを救いたいと願われた神さまの愛でもありました。十字架の苦しみは、神さまの愛そのものだったのです。
今一つの文章を引用してみましょう。
世界に対する十字架の意義
今日、十字架を見上げつつカルヴァリの聖なる地に立つとき、1900年間人類の良心がなぜこのひとつの情景に磁石のように引きつけられたのか、また、キリスト者がなぜすべての中心がここにあるとつねに考えてきたかが分かる。イエスご自身、あらゆる予想を越えた救いの威力、浄化の力は、彼自身の死によって、地に解き放たれると認識し、それを公然と断言された。その力は、主として、二本の線に沿って働くようになった。
一方において、イエスの死は罪の真の本質を啓示した。イエスを十字架につけた悪しきものは、決して未知のもの、また、異常なものではなかったことを想起しよう。カヤパの私欲、ピラトの恐怖、ヘロデの不浄、群衆の怒りと恨み、これらが〈罪なきかた〉と接触し、故意にイエスを死に追いやったものであった。
換言すれば、イエスは日常のありふれた罪によって十字架につけられたもうた。われわれは、すべて、このような罪の中に存在する。われわれがカルヴァリの丘に立つとき、われわれの心と良心とは、そこに見えるのが、われわれ自身の仕業であり、われわれがきわめてたやすく許してしまいがちな数々の罪が、つねに神の子の十字架に帰着する、とわれわれに告げる。偉大なキリスト教的概念を引用すれば、この意味において、〈小羊〉は「世の初めからほふられ」(黙示録13・8、欽定訳)、今日もなお、ほふられている。パスカルは言った、「イエスは世の終わりまで苦しみの中におられるだろう」。
おお、砕かれよ、砕かれよ、頑ななわが心、
汝の脆き自己愛と罪に満ちたる高慢は
かのピラトなり、かのユダなり、
われらの主イエスは十字架につけられたり。
このように、イエスの十字架は罪の本質、真の姿を啓示する。そして、その啓示によって救いに導く悔改めを創造する。これが十字架の威力の持つ、ひとつの偉大な秘密である。
他方、十字架は神の全能の愛を啓示する。イエスの死は、怒りの神を宥めるためではなく、神がわれわれを愛するように神の変心を迫るためでもなかった。そのような考えは、どれも決定的に非キリスト教的である。神の愛は永遠不変である。愛するように神が説得されなければならなかったときなど、一度もなかった。そのようなことはなかった。カルヴァリは、行為における神ご自身の愛だったのである。自然界の火は、地球の中心にあって、不可視的に燃え続け、突然、驚くべき一瞬の間に、時々、火山から噴出する。それと全く同様、永遠の秘められた存在である神の本質を、その輝く瞬間に提示する純然たる炎、つまり神の愛は、イエスの十字架において、歴史の中に飛来した。十字架は永遠者の心を啓示する。十字架は恵みを現実のものとし、貧しい魂に愛を有効なものとさせる。十字架は罪人たちを和解させ、世界を神の足もとに導く。
J.S.ステュアート、『受肉者イエス』、椿憲一郎訳、新教出版社、1979年、293頁f
原書は1933年に出版されたものを翻訳したものなので、1900年間人類の・・・というところは、現代に合わないのですが。
ヘロデの蛮行が、決して私たちと無縁のものではない。むしろそこに私たちの罪がある。私もヘロデと同じである、そこが理解されないと、十字架の意味が分かったことにならいない、つまり福音が分かっていることにならないのです。
ここに「イエスの死は、怒りの神を宥めるためではなく、神がわれわれを愛するように神の変心を迫るためでもなかった。そのような考えは、どれも決定的に非キリスト教的である」という言葉があります。おそらくこれは十字架の代償的犠牲という教理の背景に、神が裁きの神である、という部分が強調されすぎている場合に、抵抗を覚える言葉ではないか、と思います。
しかしキリスト教会は、終始一貫して、神さまは愛です、と語り伝えようとしてきました。神さまはエンマ大王ではなく、放蕩息子をも無条件で赦す神さまなのです。
人間の非道な罪、その所業に出会うごとに、私たちは、それをさまざまに評価します。しかしイエスさまは、そこにもともにおられ、その苦しみや痛みを背負っていてくださるのです。だれよりも深く嘆き、だれよりも深く傷つき、だれよりも深く呻いていてくださいます。そのことが明らかにされたのが十字架なのです。
一週間の恵みを感謝するために、主の日に教会に集います。また同時に、一週間に犯した罪過ちを懺悔するために主に祈りを捧げます。いずれも十字架を仰ぎ見て、苦しみを一身に背負ってくださった主こそ私の神さまであることを告白しつつ、復活の主を仰ぎます。いまもともにいて下さることを感謝します。どんなに深い苦しみの中にも神さまがともにいて下さることを確信します。十字架にまでかかってくださったお方ですから、いまの私の苦しみとともにいることが可能な全能者であることを信じています。