「わたしの食物というのは、わたしをつかわされたかたのみこころを行う」ことだと言われる(ヨハネ4:34)その彼が、ここでは一瞬、御父の意志に疎遠なものとして対立する一つの意志を、御自身において発見しなければならない。
リュティ、『この日言葉をかの日に伝え』、109頁
マタイの福音書26章39節
2013年03月14日(木)
主は十字架を前にしてゲッセマネの園で祈られました。その祈りは十字架に向かう決意の祈りでした。できることならばこの杯(十字架)を取り除けてほしいと祈られました。御自身の中にあった「御父の意志に対立する意思」と戦わなければならない祈りでした。
弟子たちは眠っていたと言います。主はおひとりで、孤独の中で戦われたのです。
主はこの戦いに勝利し十字架への道に前進されました。
それにしてもたびたび十字架にかかることを語り、十字架こそこの地にやってきた目的であると話された主が、ここでそれを取り除けてほしいと祈っておられるのです。
神であり、十字架の後には甦ることをだれよりも知っておられる主が、ここで十字架を取り除けてほしいと祈っておられるのです。
不思議といえば不思議ですが、ここにこそ、私たちの苦しみをだれよりもわかっていてくださる神さまがおられるのです。