2023年10月20日(金)
「・・・ダビデがキリストを主と呼んでいるのなら、どうしてキリストがダビデの子なのでしょう。」するとだれ一人、一言もイエスに答えられなかった。その日から、もうだれも、あえてイエスに質問しようとはしなかった。
(マタイ22・45,46)
マタイの福音書22章46節に「その日から、もうだれも、あえてイエスに質問しようとはしなかった」とあります。十字架の前の一週間に、数々の質問がイエスさまに向けられましたが、ここでその質問が終わった、ということです。最後の質問となったのは、キリストとはだれか、ということでした。キリストは、主である、ということが語られると、それ以上の質問がなくなった、というのです。
マルコでは以下のようになっています。
律法学者はイエスに言った。「先生、そのとおりです。主は唯一であって、そのほかに主はいない、とあなたが言われたことは、まさにそのとおりです。そして、心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛すること、また、隣人を自分自身のように愛することは、どんな全焼のささげ物やいけにえよりもはるかにすぐれています。」 イエスは、彼が賢く答えたのを見て言われた。「あなたは神の国から遠くない。」それから後は、だれもイエスにあえて尋ねる者はいなかった。
(マルコ12・32~34)
神を愛すること、隣人を自分自身のように愛すること。その答えが賢い答えであること、そして神の国から遠くない者の生き方だ、と言われると、それ以上の質問がなくなった、というのです。
ルカでは
「・・・神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。神にとっては、すべての者が生きているのです。」律法学者たちの何人かが、「先生、立派なお答えです」と答えた。彼らはそれ以上、何もあえて質問しようとはしなかった。
(ルカ20・38~40)
神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である、と語られると、質問が止んだ、とあります。まとめると
- マタイでは、キリストは主である、ということ。
- マルコでは、神への愛と隣人への愛、ということ。
- ルカでは、神は生きている、ということ。
それぞれの福音書にテーマがあるとすれば、これらがそのテーマかもしれません。マタイでは、キリストは主であることをテーマに読んでいく、マルコでは、神への愛、隣人への愛をテーマに読んでいく、ルカでは、神は生きていることをテーマに読んでいく。
もちろんこれだけではないと思いますが、これらを心において読んでいくと、また新しい視点が与えられるかもしれません。