,

ささげる心

彼は、単に殺害されたのではなく、不慮の事故で死んだのでもなく、「ささげられた」のである。そこにはキリストを差し出す手がある。ささげる手があり、ささげる心がある。キリストは、彼を殺す者たちの手の中にはいまさず、真実には彼をささげる方の御手の中にいます。

リュティ、『この日言葉をかの日に伝え』、81頁
へブル人への手紙9章28節
2013年2月16日(土)

イエスさまは十字架の上で、死なれました。当時のユダヤ人の宗教家たちに、為政者たちに、そして扇動された民衆によって、またその訴えの中で十字架刑の判決をしたローマの為政者によって、そしてその命令により死刑を執行した兵隊たちによって。

しかしその死は、殺害でも、不慮の事故死でもありません。イエスさま自らが十字架への道を歩まれたました。イエスさまご自身がその道を望まれ選択されました。

そしてそのことは父なる神さまのご計画であり、みこころでした。ですから十字架にかかり死なれたイエスさまは最初から最後まで父なる神さまの愛の御手の中におられました。

イエスさまは私を救いたい、罪から解放したい、尽きることのない命に生きてほしいと望まれて十字架への道を選択されました。

ここに神さまの愛があります。この愛に私は生かされています。


投稿日

カテゴリー:

,

投稿者:

タグ: