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礼拝での献金について

礼拝での献金について
2023年07月14日(金)

 教会の会計は、信徒の皆さんから捧げられた尊い献金によって成り立っています。ミッションや開拓伝道の教会は、ミッションボードや祷援者、母教会からの献げ物、支援によって成り立っているところもありますが、いつかは自立することが望ましいでしょう。
 私たちの団体は、宣教団体によって生み出されました。宣教団体は、それ自体に経済があるのではなく、宣教師がそれぞれに祷援者を募って支援をしていただき、その支援によって世界に遣わされていきます。宣教師たちが定期的に帰国するのは、休息ということも大きな意味がありますが、それ以上に祷援者への活動報告、デピュテーション、を行うためです。
 さて自立した教会は、それまでは支出の必要がなかった日本人牧師への経済的サポートが起こってきます。会堂取得や維持のための必要も増えていきます。また外部へ、超教派の働きへ、未自立の教会への支援へと、その支出は広がっていきます。これらの一切が、信徒の尊い献金によって賄われていきます。受けるよりも与えるが幸いである(使徒20・35)、とのみことばが実現されていきます。

 信徒の尊い献金によって支えられる教会ですが、必要を覚えて捧げられている、というよりも、それぞれが示されるままに、それぞれの収入に応じて捧げられることを大切にしています。会堂建設のようなある時期の特別なプロジェクトへの献金は少し例外ですが、ふつうは、10分の一献金と礼拝感謝献金を経常収入として教会の経済は成り立っています。

 『教会実務を神学する―事務・管理・運営の手引き』(山崎龍一、教文館、2021)に次のような言葉がありました。

「献金は私たちが救われたことの感謝、仕事が与えられていることの感謝、そして恵みの応答であり、感謝と服従を表すもの、献身のしるしとしての礼拝行為なのです」(50頁)

 ここに、礼拝行為、という言葉があります。献金は、教会の必要を満たすための会費のようなもの、あるいはプロジェクトを実現させるためのクラウドファンディング、カンパ、寄附、というようなこととは全く違うものなのです。

 『教会会計―基礎から実務まで』(宮本善樹、教文館、2016)にも次のような言葉がありました。

「確かに献金は、貨幣という『物』を祭壇、あるいは神殿の入口の前に設置されていた『献金箱』に入れる行為でした。しかしそれは単なる偶像に対する『お供え』ではなく、生ける神に対する礼拝行為でした。六日間生き、動き、働いたのは、神の恵みであり、そのことを通して、幾ばくかでも神のみ旨を表すことが出来たという感謝を捧げる行為です。人の存在の根源的な行為、神の賜物への感謝の献身の『しるし』が献金なのです。」(27頁f)。

 この文書に続いて、献金革新として、什一献金、月定献金など諸種の献金を全廃して、礼拝献金制に一本化する、ということが書かれています。この革新をした伊藤馨牧師(戦時中の迫害を経験。札幌新生教会)の言葉として「これは己が献ぐるものは神と自らだけが知る、其処には邪心の余地がなくなる」と書かれていました。
 これは十一、これは礼拝感謝、これは何々への献金、と自分で分類、分配すると、邪心が生まれる、というのです。献げるということは、自分の手から離すことです。にもかかわらず、自分が分配すると、どのように使われているか、ということに心が向いてしまいます。他の信者がどれくらい献金しているだろうかとの想像が走ることもあるでしょう。いろいろな思いが生まれてしまって、献金が捧げるということにならない、ということでしょう。すべてを一本化するのは、ちょっと無理があると思いますが、せめて什一献金と礼拝感謝献金、そして会堂献金など特別献金とすべきかもしれません。

 では、支出についてはどう考えるべきでしょうか。自分たちが捧げたものだから、どのような使われ方がされているかは興味津々でしょう。しかしそれでは献げたということにはなりません。かといって神さまが喜ばれないのではないかと思えるような使われ方がされているとすれば、看過できません。先ほどの本には次のような言葉があります。

「この用い方は、神の意志を推し量るしかるべき機関(責任役員会及び会員総会)の承認が必要になる」(29頁)とあります。ですから総会で予算が審議されます。その承認を受けて、会計さんは支出していきます。総会で話し合われていないことで、緊急の支出が必要なことで信徒の総意が得られやすく、また額が小さい場合は責任役員会が決定するでしょう。総会で選出された責任役員には信徒は信任を与えているでしょう。額が大きい場合や、全体で話し合ったほうがよいとの判断があった場合は、総会を開催することになるでしょう。いずれも、教会の話し合いの中で決定されていくことになります。こうして、献金が教会の前進のために使われていくように配慮されます。これは、すべての献金の使途が指定されていない場合に健やかに機能するのだと思います。

 ところが指定献金となるとそういうわけにはいきません。極端なことを言えば、一般会計が赤字で牧師さんにサポートが出せない状況の中に、外部への指定献金がなされるということが起こります。教会には必要ない物品であるにもかかわらず指定されたからということで、そのいらないものを購入しなければならないということも起こります。

 また指定献金の中には、個人指定献金というものもあります。教会に集うお互いの交わりの中で、感謝の気持ちを表したいとの思いから、無記名での援助をする方法として、個人のお名前を書いて献金箱に入れるということです。
 奉仕者に対しては、支援したい、という思いから、そのような個人指定献金は可能だと思います。しかしそれは、奉仕者個人への献金というよりも、その働きへの献金ということでしょう。
 例えば、世界宣教に立っている宣教師に対して献金したいという場合、その宣教師個人に捧げる、というよりも、派遣地での宣教活動のために捧げている、ということでしょう。ですから働きが終われば、献金の募集も同時に終わります。
 兄弟姉妹の交わりの中で、個人的な献金、ということは、やはり神さまに献げているとは言えないことでしょう。個人的な援助をしたいということであれば、それは神さまへの献金とは区別すべきなのだと思います。

 使徒の働きには、みなが持ち物を自分のものとは思わずに共同生活をしていたような記事があります(使徒2・44~、4・32~)。麗しいことだと思います。ぜひそのような活動が大切にされることを願います。しかしそれと神さまに献げる献金とは別のことではないかと思います。

 ある説教集に次のような祈りの言葉がありました。

「私どもの心に、あまりにも献身、犠牲の心の少ないことを赦してください。私どもの貪欲の現れでしかない、この貧しい献金を、赦してください。
・・・
 私どもにあなたのみ国の中を覗き込むまなざしを与えてください。あなたは、あなたを十字架につける者を愛され、自分を処刑した者にさえ、ご自分の上着をお与えになりました。そしてあなたを愛する者を十字架につけ、その弟子たちの持ち物を奪われます。どうぞ、私どもに賜物を与えて、私どもがそれを知らなければならない時に教えて、あなたを愛することを止めないようにさせてください。一番そばに置きたいと願っているものを、あなたが私どもから取り上げる時、なおそこであなたを賛美することを止めないようにさせてください。あなたが貧しき者の王になってくださるからです・・・あなたは死においてさえ、ご自分のいのちを与えてくださいます。貧しさの中であなたの富を、私どもに与えてください。」

(加藤常昭、『加藤常昭説教集、マタイによる福音書2』、ヨルダン社、1990年、544頁ff)


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